大滝和子「殴られる」「生理はじまる」人生に飲み込まれない

大滝和子にわたしはこれが衝撃だった

12歳、夏、殴られる、人類の歴史のように生理はじまる(大滝和子)

東京堂出版
『現代短歌の鑑賞事典』
馬場あき子【監修】
大滝和子・<秀歌選>
(『人類のヴァイオリン』
平12)より

大滝和子「殴られる」「生理はじまる」人生に飲み込まれない

この『人類のヴァイオリン』には、こんな一首も、選ばれてある。

はるかなる湖(うみ)すこしずつ誘(おび)きよせ蛇口は銀の秘密とも見ゆ(大滝和子)

また『銀河を産んだように』では、こんな一首が。

反意語を持たないもののあかるさに満ちて時計は音たてており(大滝和子)

(『銀河を産んだように』
平6)より

なんだってまたこんな歌ができちゃうんだい

大滝和子には、こんな歌が、ごろごろころがっている

しかし、わたくし式守は、最初に引用した一首が最も衝撃だった。

12歳、夏、殴られる、人類の歴史のように生理はじまる(大滝和子)

大滝和子「殴られる」「生理はじまる」人生に飲み込まれない

衝撃!

なぜ?

<わたし>を縛らない<わたし>

大滝和子の歌集は、図書館で借りて、その歌集で、既に読んでありますが、今回は、この『現代短歌の鑑賞事典』を典拠にいたします

『現代短歌の鑑賞事典』は、それぞれの歌人の解説が、<ノート>に載せられていて、大滝和子では、このような一文がある。

人生のドラマから自由なわれ
(中略)
思いがけない新鮮な発想によって、極めて個性的な世界を描く。

『現代短歌の鑑賞事典』
(大滝和子)
<ノート>より
なお、巻末近くの「編集委員担当一覧」によれば、この一文は、小島ゆかりさんの手によるものです

「人生のドラマから自由なわれ」と。
胃の腑に落ちる。
あるいは、
膝を叩いた、などと言ってもよかろうかと。

だが、「殴られる」のも「生理はじまる」のも、「人生のドラマ」ではないのか。
しかし、その事象にがんじがらめに縛られて歌作している痕跡が見られない点で、「人生のドラマ」ではあっても、「人生のドラマから自由なわれ」ではないかと。

殴られる

12歳、夏、殴られる、人類の歴史のように生理はじまる(大滝和子)

まさか親からか

これが親から「殴られ」ていた、その最初だったとしたら、それこそ「人生のドラマ」の、それも、その軸になってもしまおう。

が、それはないかと。他の作品を読む限りでは、であるが。

そうと思っていい短歌をここにいくらか引く煩は避けます

男子からとか

「12歳」と言えば、男子が、うすらバカぶりをそろそろ本格化する頃である。男子に「殴られる」ことでもあったとか。

そうなると、たとえまだ幼い年齢にしても、女を殴るとは何だ、との人生の転機になった話に敷衍されないこともないが、それを、やはり大きな問題として扱っている印象はないのである

他にも何かしら「殴られ」る関係性はあろうが、何にしたって、「殴られる」は、大滝和子に、その短歌に、「人生のドラマ」として歌作する縛りは見られないのである。

男子と女子の性の十字架

大滝和子「殴られる」「生理はじまる」人生に飲み込まれない

「生理はじまる」が、「人類の歴史のように」との表現で、「殴られる」を、あたかも「生理」の序章程度に追いやる。

わたくし式守は、男子たれば、「生理はじまる」痛みは、わかるべくもない。男子の精通の体験も、あれはあれで、男子の関門ではあるが、だからと言って、「生理はじまる」と同じ痛みではあるまい。

男子と女子は、性に、背負うべき十字架が、同じ十字架ではないのである。

(それはまた別の主題であろうが)

一過性と永遠

12歳、夏、殴られる、人類の歴史のように生理はじまる(大滝和子)

殴られる一過性

長じるに従って、「殴られ」たことを、胸の底に沈めて、「殴られ」た痛みのコントロールができるようにもなろう。

が、この一首の「殴られる」は、その実質がいかなるものかは知らないが、大滝和子ご本人に、耐える価値のない過去に今も耐えているようすがない。

ありていに言えば、「12歳」の「夏」を、忘れはしないが、出来事としては、一過性に落とし込んでいる。

生理はじまる永遠

やがて閉経というものはあろう。
女性の閉経後も、男性は、いくつになっても射精が可能である。そのこととの非常な違いを思う。

が、人類に、「生理」そのもは、永遠の連鎖である。男子の射精と宿命性が異なる。
なるほど、「人類の歴史のよう」である。「人類の歴史」以外の何物でもないかのようである。

「人類の歴史」なる表現の痛み

要は、こうではないのか。

「殴られる」ことは、もちろん痛みである。が、それは女性性が主題ではない。
(女を殴るとは何だ、と考えれば、女性性の話に敷衍されないでもないが)

されど、「生理はじまる」に遭遇して、たかだか「12歳」にして、ある種の宿命を受け入れなければならなかったことはどうか。「人類の歴史」とは、言いも言ったりで、それはいかにも雄大な喩ではある。
が、大滝和子一個人は、ほんとうは釈然としていなかった、その表現だったのではないか。

女性として生まれたことに、ここに至って、逃げようがなくなってしまったこと。男性への「秘密」を持ったこと。
それが、大滝和子の言う「人類の歴史のように」だったのでないか。

大滝和子「殴られる」「生理はじまる」人生に飲み込まれない
実際がどうかは知らん

されど、わたしは、大滝和子の顔をまともに見ることができない。
どうしてもできない。

大滝和子に時間とは

大滝和子「殴られる」「生理はじまる」人生に飲み込まれない

「人類」が、この先も、永遠の種族であるかどうか、それはわからない。
しかし、この世界は、人智を超えた何者かの存在によって、あちこちに「秘密」があるのである。

はるかなる湖(うみ)すこしずつ誘(おび)きよせ蛇口は銀の秘密とも見ゆ(大滝和子)

そして、この一首も、ここで、改めて引いておきたい。

反意語を持たないもののあかるさに満ちて時計は音たてており(大滝和子)

カナモノとしての「時計」はいずれ消滅しよう。
しかし、時間は、消滅しない。

「人類」の運命がどうなろうが、時間は、止まることを知らないのである。その公理は、どんな「秘密」があるか。
大滝和子は、その短歌に、そこを解くまではしていない。

(人類が解ける問題でもなかろう)

ただ、大滝和子によって、その短歌によって、世界は永遠であることを、人は、改めて説得されるのである。

大滝和子のこれこそが衝撃

大滝和子「殴られる」「生理はじまる」人生に飲み込まれない

わたくし式守に、「殴られる」体験はあっても、「生理はじまる」体験はない。
それが、どうしてこんなに衝撃だったのか、今回、改めて鑑賞して、どうもこういうことに着地するように思えたのであるが。

「12歳」の体験の、それも、「12歳」に最もよく似合う季節である「夏」に「殴られる」ことは、ほんの通過点程度の措辞に抑制している。

が、一方の、「生理はじまる」ことは、わが性たる男子を畏怖させる永遠性を打ち出していないか。

短歌関係の読み物で、そこに大滝和子が載っていると、いずれも、その絢爛たる喩を讃えている。

異論はない

異論はないが……、

大滝和子が、真に畏怖されるべきものとして、わたくし式守には、大滝和子が、自身がどこまでも女性であることを強く自覚して、そこに、宇宙大の公理を重ね合わせていることではないか、との考えがあるのであるが。

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