
目 次
主人公<わたし>が魅力的な短歌
満月の暑くも寒くもない夜はイライラせずに信号を待つ(大崎安代)
本阿弥書店『歌壇』
2017.4月号
「宇宙への旅」より
つまらない理屈をつけるようで気がさすが、「信号を待つ」のに、ふだんは、「イライラ」することがあるわけだ。
「満月」でも「イライラ」する。
「満月の暑くも寒くもない夜 」の条件を満たさないといけない。
この<わたし>ってば……。
短歌の連作は、それまでも読んでいて、いずれもおもしろかったが、大崎安代の連作「宇宙への旅」で、わたくし式守は、短歌の連作を偏愛することが決定的になった。

唐突に4コママンガと短歌の連作
偏愛していた、と言えば、わたくし式守は、4コママンガの『OL進化論』を偏愛していた。
(まだ連載中です)
4コママンガは、それぞれをバラバラに読んでいたのが、バラバラがいつしか一体となって、その一体の世界に自分が転移する。
『OL進化論』は、その世界に身を置くこと、まことに、まことに居心地がよかった。
関川夏央が、「第6回手塚治虫文化賞」の候補作だった『OL進化論』を評価して、このような寸評をのこしている。
4コママンガとして正統的な明るさとウィットを持っている。
(この記事のタイトルはここからとりました)
短歌の連作もそのようなシロモノだ、とは言えないが、バラバラの短歌がいつしか一体となって、その一体の世界に転移することはある。
明朗な受難

カシミヤのセーターに虫食い穴空けど仕事を休む理由にならず(大崎安代)
されど、<わたし>は、「仕事」に行ったであろう。
アタリマエである。
たとえそれが「カシミヤ」でも、「セーターに虫食い穴」で会社を休まれては、同僚はたまったものではない。
働いていると「仕事を休む理由」が欲しくなるのである。
元気な親戚を病人にしてしまうことだってあるのである。
「カシミヤのセーターに虫食い」で、一瞬であるが、<わたし>は、魔がさしそうになった。
これで、式守はもう、大崎安代ワールドの住人になった。
『OL進化論』の時と同じである。
日本語文法とハングル文法

録りためた韓流ドラマを一気見の朝は欠伸と寝ぐせハムニダ(大崎安代)
よく知られていようが、「カムサハムニダ」は、日本語の「ありがとう」である。
「カムサ」を「ハダ(する)」である。
「ハダ」の丁寧語が「ハムニダ」で、かの国は、漢字を廃止したが、「カムサ」は漢字にすると「感謝」である。
直訳すれば「感謝する」だ。
감사=カムサ=感謝
합니다=ハムニダ=します
となると、結句が気になってしまう。
(改作)
録りためた韓流ドラマを一気見で寝ぐせの朝に欠伸ハムニダ
ハングルのおぼえがあると、こっちの方がしっくりくる。
寝ぐせハムニダ=寝ぐせする
そのような言い方は、ハングルにも日本語にもないのである。
欠伸ハムニダ=欠伸する
この方が、自然ではないか、というわけだ。
でも……、
寝ぐせハムニダ
こっちの方が、ずっとおもしろくありませんか。
そして、「寝ぐせハムニダ」「寝ぐせハムニダ」と言っている姿が目に浮かんで、<わたし>をもっと読みたくなって、あ、これは、『OL進化論』の時と同じだな、と。
おもしろい
「いつもの店」で「大盛り」だ

特別なことは何も無い土曜日の食事はいつもの店のあの席(大崎安代)
わたくし式守は、歌歴が、かれこれ6年になるが、さっぱり上達しないのである。
こんな一首を読むと、それもしかたないか、となる。
式守においては、「いつもの店」で終わってしまうのである。
「あの席」まで踏み込むを読んで、一首がぐっとおもしろくなることを知る。
さて、
「何もない土曜日」なのに、「いつもの店のあの席」によって、「何もない」ことの厚みを感じられる。
4コママンガのようにつぎつぎと読ませることに不思議はない。
大盛りを注文すれば吾が皿は迷わず夫の前に置かれり(大崎安代)
「いつもの店のあの席」だろうか。
1度や2度でないと思われる。
と同時に、こうも読める。
「夫」は「大盛り」なんて食べない。
されど、<わたし>の「大盛り」をとがめだてしていない。
夫婦間によくあることで、「夫」は妻たる<わたし>にあきらめきっているのか?
「夫」のお人柄に厚みがうかがえる。
これだけでも傑出した夫婦文学たり得ていないだろうか。
短歌のドミソ

東京の星が見下ろす帰りみちハイヒールの足が痛みぬ(大崎安代)
<わたし>は足が痛い、要は、そういう内容だ。
でも、「痛い」が、詩になっているのである。
東京/星/ハイヒール
この3つの要素が調べをなした
足が痛いが詩になった瞬間だ
でも、これでは、千里の星の下は茨千里になってしまったじゃん
「ハイヒール」なんて履いたからいけないのかなあ
「東京」とはいつもこうもなるところなのかなあ
「東京」の空は、ネオンなる商業広告が、日常に密着していない燃焼で輝く。
「ハイヒール」の機会は、この燃焼が生み出して、おりおりそれを不可避にしてしまう。
となると、「東京」の光の、なんと不自由なことか。
初句の「東京の」は、2句目以降を支え得て、「痛い」の詩の強度を増した。
大崎安代は宇宙へ旅立つ

大崎安代の連作「宇宙への旅」は、7首ある。
これが最後の一首だ。
ガラケーをスマホに変えて進化した吾は目指しぬ宇宙への旅(大崎安代)
ガラケーがスマホになったのは、たしかに進化の過程である。
が、それを所有する<わたし>の実体も、進化したことになるかなあ。
水をさすようでナンであるが、IT機器が達者になるほどに、人は、退化する。
漢字が書けなくなった。
暗算が苦手になった。
されど、<わたし>は、「進化した」と。
ばかりか、「宇宙への旅」を志向してしまうのである。
こんな調子でご自分だけ「大盛り」を食べているのかと思えば、「宇宙への旅」に「夫」が不在なことも、この人らしい話である。