
指笛を鳴らせない大人
指笛がうまく鳴らねば大人とはどこかつまらぬものかも知れぬ(恩田英明)
ながらみ書房『短歌往来』
2026年6月号
「指笛がうまく鳴らねば」
筆者(わたくし式守)、62歳男性。指笛を鳴らせません。
べつに悔いていない。指笛を鳴らせないまま生涯を終えてもいい。
でも、指笛を鳴らせないまま大人になった現在を、この一首は、強制的に見直す力があった。
なお、筆者は、ピアノもギターも弾けない。
やはりそれを悔いていない。今からチャレンジする気もない。
でも、ピアノとギターは、それをできないまま今に至ったことの内省は促さない。
おかしな話ではないか。
そうではないか。
ギターとピアノは、それを弾ける身になれば、人前で、一芸を披露できる。
誇らしかろう。
指笛よりやってみる価値が高そうではないか。
なのになぜ、指笛ができない今を生きていることでは、こうも何かを思ってしまうのか。
この歌の尽きない魅力の理由はそのあたりにありそうな。
ということについて以下
ピアノやギターと指笛の差
ピアノやギター、これらは、社会的な文化の洗練の象徴である。
一方、指笛はどうだ。
指笛は、楽譜も楽器も持たず、自分の体一つで鳴らす無邪気さの象徴にはなりえても、所詮は指笛だ。
人は、大人になる過程で、指笛を、これはできなくてもいいものとして削ぎ落としてしまう。
指笛は、そう言ってよければ、むき出しの少年性だ。
少年性がむきだしのまま社会人をやれるように世の中は生成されていない。
まして、仮に、あくまで仮に、今から指笛の達人になれたとする。
なれたとて、半世紀前に、夕焼けに染まる土手で指笛を鳴らしていた少年の美しさには、もう敵わないだろう。
指笛を鳴らせないという現在は、実社会で危なげない大人になることの引き換えだった。
過去、どこかに、たとえば夕暮れの土手に置き忘れた自由だった。
それを、この一首は、チクリと刺激したのである。
現在を受容する
今から指笛を練習しよう、と思ったとする。
未来に未練があるからだ。
未来に。
そうではないか。
できないまま還暦を迎えたことを悔やんではみても、その埋め合わせをしようとはしないのである。
つまり、未来に未練よりも、現在を受容することを選んだ。
少年が大人になる過程で、将来の安泰のために削ぎ落した痛みを、この指笛の歌は、受容してくれた。
それでもいい。と。生きるためだった、と。
ピアノやギターは、でも、そうならない。
なぜ。
ピアノやギターを大人の趣味として今から教室に通う選択肢は、リアリティをもってイメージできることである。
指笛はそうじゃない。
ピアノやギターの方が、ハードルは、指笛より低いのである。
だから身の内に内省を強制しない
手垢のついた修辞であろうが、指笛ができないことは、もう二度とあの頃に戻れない絶対的な手遅れ感だ。
人生のグラデーション。
作者の恩田英明さんは、この歌を、決して後悔として詠んでいまい。
これまでの人生を、哀愁の帯びたグラデーションとして受容なさっておられるのではないか。
筆者は、この歌を、つくづくいい歌だと眺めた。
読み返す。
指笛がうまく鳴らねば大人とはどこかつまらぬものかも知れぬ(恩田英明)
ああ、少年の日々

