
目 次
短歌は日常に厚みを持たせる
去るものは追わずさりとてボールペン ケータイ 眼鏡 財布おまえもか(沖ななも)
北冬舎『白湯』
(何事もなき)より
この一首は、わたくし式守に、沖ななもの最高傑作ではない。
また、いわゆる秀歌タイプでもない。
が、本来であれば、深読みなど要らないであろうこの一首に、わたくし式守は、人の世の摂理をかなしくおもうのである。
わたくし式守には、これは、そのように貴重な一首である。
小説や散文詩ではそうはならないのを、わが前後の景色を、改めて見回してしまう。
この国における消費財とは
妻と暮らす2Kの間取りは、衣食に欠かせないものが、高価なものではないにしても、不自由なくそろっている。
当たり前のことを言えば、買ったからだ。
あ、いや、いただいたものもある。が、それも、どなたかが買ったものではないか。
この国は、商いの巷に末端消費材が満ち溢れている。
そして、末端消費材は、家庭の中に移植されるのである。
やがてゴミになる。
ゴミとなったものが、午後になっても、パッカー車に収集されずにいる光景を見かけたことはないか。
環七ともなれば、夕刻、パッカー車が、連なって走っている。
消費の、これが、先進国の裏側である。
たかだか財布の話であるが

ここで読み直す。
去るものは追わずさりとてボールペン ケータイ 眼鏡 財布おまえもか(沖ななも)
たのしい。
心の臓にとびこんでくるものがある。
ひいては、この一首で、わたくし式守は、自分の吐きたい息を吐き出せる。
人は金がないと生きていけない。
されど、一日かかっても収集されないゴミになるものを買っているのである、人は。あ、いや、この国の人々は。
「財布おまえもか」か。
<わたし>は、悔いるかも知れないのを、うすうすそうと見通していても、買わないでもよさげなものまで買ってしまうことがあるのをうかがえる。
なのに、「財布おまえ」には迷惑している、とばかりの、この言いっぷりはどうよ。
わたくし式守が沖ななもを好きなのは、このようなテイストの表現なのである。
もはや宿命として
わたしにもお金の憲法がある。
買わないわけにはいかないので買う。これはいい。
それが痛い出費でもしかたがないではないか。だから働いている。
それ以外は、ほんとうにほしいものしか買わない。ほんとうにほしい、と思っても、いったんは見送る。
5万の倹約は5万の収入である。
しかし、売り切れてしまって、ああ買っておけばよかった、と悔いることがある。
散財も倹約も不健全なのだ。
お金の、その健全か否かの境目は、そもどこに。
わからない。
ただ、これはもう人の宿命ではないか。
花を散らさずに根を抜ける沖ななも
この人間の宿命に、沖ななもは、ただただ純粋な生活人として、財布一つを詩に収めてしまう。
その歌集を読めば、沖ななもの行状は、あくび一つでも魅力的な短歌になってしまうのである。
「財布おまえもか」だよ。
沖ななもの、ひたすら生活人である純粋性が、わたくし式守は、いつも眩しい。
花を散らさないように根を抜くことは困難であるが、詩人は、あるいは歌人は、花を散らさないで根を抜けるものらしい。
沖ななもの抜いた花は、一世の光彩を放っている花ではない。
が、その花は、地上をひらりともしないで、わたくし式守を、常、浩嘆して諭すのである。