沖ななも「またも財布を」神に財布で試されているかのように

言い訳がましい言い方なのに

わが首は縦に振るほうがたやすくてまたも財布を開けてしまえり(沖ななも)

北冬舎『白湯』
(ひとびと)より

沖ななもの歌が好きである。
のびのびとした作風に何か大きな量感と魅力を覚えられるからである。

この一首もそうだ。
カッタルイことを申し上げるようで気がさしますが、財布一つで、これはもう世俗の公理に及んでいるんじゃないですか。

あたしあたりだと、 「無駄遣いはいけないと」とかそんな措辞にしてしまって、まったくつまらなくなるが、沖ななもは、財布にはほとほと迷惑しているような、あたかも自分に非はない調子が、何だかおかしいのである。

でも、そこに、人間の逆らえない運命でもあるかである。

財布一つで世俗の公理に及ぶ

「財布を開けてしまえり」
なるほど。ついお金を使ってしまう。あるいは、またお金が出てゆく。
そのようなことが詠まれている。

その「つい」とか「また」はなぜか。
それを「首は縦に振るほうがたやす」いからである、と表現しているのである。
おもしろいなあ。

沖ななもは、財布一つで、人にはどうしてもながされてしまうことがある、世俗の公理にまで及ぶ表現をし得ている。

わたしだと短歌がこうはいかないのはなぜか

わたしであれば、どんな歌になってしまうか。

唐突に
短歌のおけいこをはじめます

わたしは、倹約を心がけてこの人生を生きている。
詩を覚えるのはむしろお金を使わないこと。財布をめったに開かないこと。
詩の入り口が違う。

だから、短歌にするのであれば、こっちに舵を取るべきと判断した。
つーか、こっちにしか進めないのである。

だが、わたしの短歌は、やはり、と言うべきか、沖ななもの短歌のように鑑賞に堪えるものになってはくれない。

こんな風に……。

「お財布は口がかたくて」

お金を使わない展開を待つ修辞として、まるでファスナーがこわれているかである。
そもそも手垢がついた言葉だ。

「わが首は縦に振るほうがたやすくて」

財布を再三取り出してしまう展開を待つ修辞として、あたかも逃げられない運命でもあるがごときではないか。
それが迷惑だとでも言いたげなのも何だかおかしい。

神に財布で試される

おけいこをつづけています

<草稿>無駄遣いしないホニャララ財布はべつにこわれていない

財布の口がかたい、とするよりは、説明的散文から離脱できた。

が、「無駄遣いしない」のあたりがまだ、短歌としてうすらぼんやりしている。

宗教や神学の話としてではない。
この世界はたしかに、人智を超えた力が働くことがある。

そして、人は、試される。

何で試される。
財布で。
金で、ではなく。

わが首は縦に振るほうがたやすくてまたも財布を開けてしまえり(沖ななも)

いい歌だよなあ。

沖ななも「またも財布を」神に財布で試されているかのように

苺と思って石を嚙む

わたしは、わたしの倹約には詩が隠れているのではないか、そう感知はした。
そこまではいい。

が、わたしはその次に、要は、財布の表生地にあるかも知れない詩を、ファスナーにあると決めてかかって、そこから一歩も出なくなる。

わたしは、短歌をつくるにおいて、白を黒と言いくるめるようなまねをしているわけだ。

苺と思って石を嚙むようなものではないか。

つまりこうか。
つくりたくもない歌をつくっている。

いい歌など当然できない。

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