岡山たづ子「吊橋の揺るる上にて」人生の余白に大きな存在が

人生の余白/青年

岡山たづ子「吊橋の揺るる上にて」人生の余白に大きな存在が

新聞を立ちて読みゐる青年と鳩と爽やかにありてかかはらず(岡山たづ子)

短歌新聞社
『雪の香』
「一直進」抄
(飾窓)より

その光景が頭に心地よく打ち込まれることがある。

この「青年」に「新聞」も「鳩」も、欠くことができない。
欠いては、「爽やかに」ならない。「かかは」る、「かかはら」ない以前に、目に留まらない。

読者たるわたしの内は、「青年」が、どかんとすわった。

読者たるわたしももちろん、「青年」と「かかは」る可能性は、<わたし>よりも低い

この時空は、<わたし>に、人生の余白程度である。
余白程度のものであるが、人生に、余白が、思いのほか大きくなることがあるようだ。

人生の余白/水鳥

岡山たづ子「吊橋の揺るる上にて」人生の余白に大きな存在が

水鳥が杭に止まりてゐる姿心をつなぐ手がかりもなく(岡山たづ子)

同歌集
「同」抄
(同)より

この「水鳥」は、その存在感が、「爽やか」とは質が異なる。

よって、心地よく、ではないが、やはり頭に打ち込まれる光景である。

読者たるわたしの内に、「水鳥」はやはり、どかんとすわった。

もとより「心をつなぐ」ことなどいくら待ってもこの先にあるまいが

この時空も、<わたし>に、人生の余白程度である。
やはり余白なのであるが、その人生に、忘れ得ぬものになった。

交差判定

岡山たづ子「吊橋の揺るる上にて」人生の余白に大きな存在が

2首を並べて読み返してみたい。

新聞を立ちて読みゐる青年と鳩と爽やかにありてかかはらず(岡山たづ子)

水鳥が杭に止まりてゐる姿心をつなぐ手がかりもなく(同)

<わたし>は、一瞬の観察で、ここに確かな時空があることを認識した。

しかし、「青年」も「水鳥」も、<わたし>の生命のラインと交差のなきもまた、一瞬で認識したのである。

誰にもこのような体験(体感)があって、珍しくもなかろう

が……、

読者たるわたくし式守は、岡山たづ子なる<わたし>の生命の余白の、この一瞬から目が離せなくなるのである。

なぜ?

「かかはらず」と。
「手がかりもなく」と。

あたかもそのことが不本意であるかの結句が、わたしに、ただ読み流すことを許さない。

生命を脅かすもの

岡山たづ子「吊橋の揺るる上にて」人生の余白に大きな存在が

吊橋の揺るる上にて遥かなる人の真をみつめてゐたり(岡山たづ子)

同歌集
「花々」抄
(耳底の雨)より

アタリマエであるが、この一首は、「人」が、これから落下してしまう直前を詠んだものではない。

が、この「人」に、残酷な運命が待っていて、「吊橋」が今にも崩れてしまう、と考えないでもない。

そう邪推しても不謹慎になるまい。「吊橋」が「揺」れているではないか。

この一瞬もまた、彼我に、交差はない。ないが、「かかは」ることなどこの先もない他人に、重き生命のあるを、読者たるわたしは、改めて突きつきつけられるのである。

「真」とは何か

読み返す。

吊橋の揺るる上にて遥かなる人の真をみつめてゐたり

人生があります

一瞬があります

余白があります

生命があります

<わたし>を待ってこの光景は完成を見た。

<わたし>がこれを観察する時空の完成に、どれだけの偶然が重なったか、それはもう宇宙大の無秩序があろうか。

が、生命ある現実の人と世の、その完成に、科学より重い「真」があることを思わないではいられない。

一個人の人生の余白に描かれるのが、思いのほか大きくなることがあるのは、ただただこの「真」ではあるまいか

吊橋の揺るる上にて遥かなる人の真をみつめてゐたり(岡山たづ子)

岡山たづ子「吊橋の揺るる上にて」人生の余白に大きな存在が

リンク

短歌新聞社は解散しました。(「短歌新聞」2011年10月号より)

短歌新聞社の『雪の香』岡山たづ子歌集はAmazonに在庫はないようです。(222.10.29現在)

参考リンク