
目 次
ゾンビだったがばかりに
痛みなく哀しみもなく頭蓋から撃ち抜かれゆくゾンビ愛ほし(岡田悠束)
ながらみ書房『短歌往来』
2025年10月号
「平凡に生く」より
おもしろい。
いくらゾンビだってこんなのあんまりだ、となった。人間だったら歌にするどころじゃない。
相手が人間だったら何らかの感情が先行するものだ。人間じゃないから簡単にこんな目に遭わせてしまう。
もっともゾンビに遭遇することなどフツーないけど。
つまり
つまり、人間(主観を持つ存在)の枠から外して「撃ち抜」くことで、かえって純粋な「痛み」と「哀しみ」に触れ得るのではないか。
それは究極の救済

話を大きくするようであるが、しかし、強く、まことに強く思うのは、この「愛おしさ」は究極の救済ではないだろうか。
だってそうだろう。
人間は、死を意識すると、死に、未練や恐怖がつきまとう。生への執着が生まれる。この歌のゾンビはどうだ。一切の苦痛から免除されているではないか。
それを、作者の岡田悠束さんは、「愛ほし」と。
愛ほし
静かな物質の世界
読み返す。
痛みなく哀しみもなく頭蓋から撃ち抜かれゆくゾンビ愛ほし(岡田悠束)
人間を苦しめるのは、自己というまこと厄介な存在だ。
哲学者サルトルは、意識を持つ人間を「対自(自分自身を意識するもの)」と呼んだ。石ころのような物体は「即自(ただそこに在るだけのもの)」である。
この歌のゾンビは、撃ち抜かれる瞬間に、「意識」など持たない。完全無欠な「物(ただただ物体)」である。すなわち「即自」。
「痛みも哀しみもない」とは、人間という苦役を終えて、静かな物質の世界へ還っていくプロセスである、と思うことはないか。
筆者(式守)にはあるが。
その徹底した受動性(なされるがままの状態)に、作者の岡田悠束さんは、聖性や救済を祈ったのではないか。
と、思うのであるが。
現に、ほれ、「愛ほし」と結句に。
愛してあげて
愛してあげて
逆説的に純粋な愛を生み出す
読み返す。
これで最後だ。
痛みなく哀しみもなく頭蓋から撃ち抜かれゆくゾンビ愛ほし(岡田悠束)

「人間」としての振る舞いができなくなったゾンビに、人間は、「頭蓋を撃ち抜く」という決定的な終止符を打った。
この「愛ほし」は、すばらしい、の一言に尽きる。
相手がゾンビだってこれ以上の変質や汚れってどうよ、と。
そう捉えてみた時に、筆者(わたくし式守)は、破壊行為が逆説的に純粋な愛を生み出す公理に息をのんだ。
