
目 次
たつた一つ咲いてくれたる
たつた一つ咲いてくれたる紫陽花が手わたすやうに滴をこぼす(岡部由紀子)
本阿弥書店『歌壇』
2015.9月号
<第十二回筑紫歌壇賞
受賞第一作二十首>
「三年目」より
このように作られた短歌を、わたしは、何度も、何度も読み返してしまう。
わざわざ文字を追わないでも暗誦できていように。
このように、とは?
「手わたすやうに滴を」は、いかにもしみじみと胸に沁みるが、「手わた」した「紫陽花」は、「たつた一つ咲いてくれたる」ものなのである。
「たつた一つ咲いてくれたる」ものなのに、その「滴」が、あたかも「手わた」されたかの姿に見えたのである。
各句が協調して一首全体をみずみずしく

読み返す。
たつた一つ咲いてくれたる紫陽花が手わたすやうに滴をこぼす(岡部由紀子)
初句から結句まで、どのパーツも(パーツなんて言い方をするもんじゃないかも知れないが)協調して、一首全体は、ひどく抒情的なみずみずしさに満たされている。
いいなあ
いい歌だなあ
どのパーツも(パーツなんて言い方をするもんじゃないかも知れないが)、語彙レベルでも、修辞のレベルでも、バンッと力のある言葉はない。
されど
ここに、それは、生命の連鎖と言ったようなものであろうか、この世界の生命の真を、わたしは、突きつけられた。
そして
見渡せば、たとえばそれが「たつた一つ」の「紫陽花」に過ぎないものであっても、この上なく美しいものが、この世界には、存在していることを教えられた。
それはちょっと
見渡しただけで
人間には、こんなものを、ごく自然に感受してしまえる善の心があるようだ。
いいなあ
ほんとうに
岡部由紀子って
咲いてくれたのである、くれたのである

この連作「三年目」は、連作単位で再読、再再読をたのしめるが、今回、この一首に限って注目してみるのは、2句目の「くれたる」が、<わたし>にうれしかったようすがさりげなくうかがえて、わたしは、<わたし>に、微笑ましく好感を抱けたからである。
かつ、その好感を抱けたことで、短歌を読むよろこびを、改めて覚えることができたからである。
たつた一つ咲いてくれたる紫陽花が手わたすやうに滴をこぼす(岡部由紀子)
ほら、ほら、ほら
<わたし>と顔を見合わせてしまいせんか
紫陽花の個の美しさ

この世の紫陽花は、<わたし>に、そしてわたしに、どの紫陽花も等しく「咲いてくれ」るものとは限らない。
紫陽花もこれで、生命を発光させるのに、困難な年が少なくなくあるのである。
老いてしまうこともあろうか。
されど、歌人・岡部由紀子はこたび、「たつた一つ咲いてくれたる紫陽花」との接点を持って、紫陽花の個体を識別したことで、この世界の厚みが明らかにされた。
個としてがんばった紫陽花のすばらしさ
この個以外の紫陽花へのいたわり
たった今、目の前に、紫陽花は、ただただ独立した個として存在していて、この世の紫陽花という紫陽花の一部分などではない、「たつた一つ」の生命体なのである。
そして、「手わたすやうに滴をこぼ」した、と。
このように作られてあると、その短歌を、わたしは、何度も、何度も読み返してしまう、というわけである。