小黒世茂「左手ぶらん」「いまの」/意識は肉体へ連行された NEW!

読む目安: 約2分

感情というもの

水を飲み左手ぶらんと遊ばせることもわたしのいまの感情(小黒世茂)

ながらみ書房『短歌往来』
2026年2月号
「川はうごけり」より

一読して、これはおもしろい、となった。

「左手ぶらん」が「感情」なのもおもしろかったが、筆者(式守)は、その「感情」が「いまの」であることが、この歌のおもしろいな性を高めていると思った。
しかも「いまの」。漢字を起こしていない。

ということについて以下

「いまの」の最大の価値

通常、「感情」と言えば、「悲しい」でも「嬉しい」でも、ある程度持続している心のうごきのことである。
しかし、この歌は、「いまの」で、その持続時間を可能な限り短縮させている。

「悲しい」なら昨日から続いているものかも知れない。しかし、「水を飲み左手ぶらんと」は、今この瞬間にしか存在していない「感情」である。

また、ひらがなで「いまの」としたことでは、時間の硬質感が除去されている。
水が喉を流れ落ちて、体の一部が弛緩していく。その流動的な一時(ひととき)というニュアンスが、ひらがなの柔らかさによって表現された。

「左手ぶらん」の瞬間性

小黒世茂「左手ぶらん」「いまの」/意識は肉体へ連行された

かけがえのない瞬間

人間、「左手ぶらん」に、これが自分の感情である、と認識しないものだ。そもそも「左手ぶらん」は、人に語るほどの姿だろうか。

が、「いまの」という連体修飾は、「左手ぶらん」の、肉体まずありきの、数秒のタイムラグを捉えた。
「いまの」によって、読者は、それをかけがえのない瞬間として立ち会うのである。

肉体と精神の接着

「左手ぶらん」は、意志の抜けた脱力状態であろうが、感情とは、「胸が締め付けられる」とか「怒りで震える」とか、存外、力が入っているものではないか。それを、「いまの」と詠むと、脱力した肉体と揺れ動く心が接着したのである。
人生の難局、一期の大事にあれば、「左手ぶらん」とさせている場合ではない。

そして感情は肉体へと

生きていれば不愉快なこと絶え間なくあるのである。人間は、そこで、意識が過去に向く。原因を反芻するのだ。
「なぜあんなことを言われた」とか「なぜ今回もダメだったのよ」とか。

ところが、この歌を読むと、過去のあれこれ(歴としたストーリーがある)から切断されているのだ。

水を飲み左手ぶらんと遊ばせることもわたしのいまの感情

小黒世茂「左手ぶらん」「いまの」/意識は肉体へ連行された

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