小田亜起子「地獄覗き」ひとり残されたこの人生を採点すると

地獄ってどんなところよ

死後は「無」とおもえど気になるその名ゆえ鋸山の「地獄覗き」へ(小田亜起子)

本阿弥書店『歌壇』
2017.10月号
「地獄覗き」より

小田亜起子「地獄覗き」ひとり残されたこの人生を採点すると

死後が無であることをちょっと疑ってるじゃん。
自分の死後が地獄だったらやだな、ってちょっと思ってるじゃん。

2句目の「おもえど気になる」の、この自己検証の措辞が、わたくし式守にたまらなくおもしろかったのであるが、おもしろくありませんか、これ。

おもえど気になる、ってあなた。
自分の全人生を採点しようとしているじゃん。

わたしはこのような歌が大好きである

さしあたり安堵させる赤とんぼ

小田亜起子「地獄覗き」ひとり残されたこの人生を採点すると

地獄行きになるほどの悪(わる)と思わざり赤とんぼわが肩に寄りくる(小田亜起子)

『同』
「同」より

<わたし>に、「赤とんぼ」は、安んじて親しんでしまうらしい。

自分の肩に小鳥がとまるとか、獣でさえも自分と歩きたがるとか、そのような絵本的人物描写があるが、この一首は、そのようなテイストとは一線を画していようか。
赤とんぼが肩に寄りくるのが、地獄覗きの、その前後において、なのであれば。

よかったね

地獄に落ちる人生じゃなかったみたいね

赤とんぼが寄りくるとあれば、これはもう、ホンモノじゃん

そして

上句に、地獄行きになるほどの悪(わる)と思わざり、と。

「地獄行きになるほどの」の「ほど」がいい。
短歌の措辞としても、ご自分のスケッチとしてもすばらしい。

善き行いばかりではなかったことを、今も、おりおり反省することがうかがえる。
このようなお人なのである。
このようなお人柄なのである、小田亜起子なる<わたし>は。

天近き絶壁

小田亜起子「地獄覗き」ひとり残されたこの人生を採点すると

天近き絶壁に立ち見下ろせば秋づく渓に風の吹き過ぐ(小田亜起子)

『同』
「同」より

「地獄覗き」をしてみました、と。
何も雷鳴とどろくこと常なる世界がそこにあったわけではなかったようだ。

あくまで仏教上の地獄のイメージです

が、そもそも天近き絶壁、ここは、地獄ではないにしても、おっかないところではないか。

なぜおっかない。

なぜ?

落ちるかも知れないじゃん

落ちないか、落ちないか、って

落ちるかも、とあらばそりゃあなた、そこは地獄

あくまで仏教上のイメージです

しかし

秋づく渓に風の吹き過ぐ、と。
落ちたら地獄かも知れないところは、<わたし>に、何と清涼な世界だったことか。

おっかないけどね~

人生の悲哀の日々よ

ニシキギの雨に紅増しそういえばひとり暮らしが楽なこの頃(小田亜起子)

置きざりにされたる思い猛暑日をサングラスかけひたすら歩く(同)

いずれも
『同』「同」より

連作「地獄覗き」の1首目と2首目である。

小田亜起子「地獄覗き」ひとり残されたこの人生を採点すると

ニシキギを詠んだとて、これを、庭木と断定はできないが、「ひとりぐらしが楽」と嘆じているのであれば、この一首は、ご自宅にあっての歌と想定しても拙速ではあるまい。

紅の美しさに驚いた。

それは

時の速さもまた感受した。

ひとり暮らしの時間がアタリマエになってきて、本人もそうと知らずに、そのアタリマエが「楽」にも思えてきたことに、お気づきになったごようすである。

この「楽」を、<わたし>にかえっていいこと、となさっておいでか、淡い諦念に過ぎないもの、となさっておいでか、そこまでは見通せないが、ここに続く2首目は、<わたし>の姿を、その人生に、凛々しく映し出している。

「猛暑日」でも「サングラス」をかけて、「ひたすら歩く」しかないことを、かつ、その能動性を、小田亜起子は、痛ましくはあるが、しかし、凛々しく歌に収めたのである。

<わたし>は、それは、小田亜起子は、でもあろうが、「置きざりにされたる思い」を胸に「ひたすら歩」いた。
「置きざりに」したらしきお方とどれだけの紐帯があったことか。

再読では、この初句「置きざりに」にして、痛切である

蟻への好奇心は

呆けたらばさみしくないか捩花の先端にゆれいる一ぴきの蟻(小田亜起子)

『同』
「同」より

小田亜起子・連作「地獄覗き」の3首目である。
鋸山の「地獄覗き」の前に置かれている。

小田亜起子「地獄覗き」ひとり残されたこの人生を採点すると

蟻は、捩花の先端にゆれている、と。

鋸山の「地獄覗き」で、小田亜起子なる<わたし>に、先に引いた、このような一首がある。

天近き絶壁に立ち見下ろせば秋づく渓に風の吹き過ぐ(小田亜起子)

蟻と<わたし>が、ここに、整合する。
落ちてしまうのか。引き返せるのか。
蟻に、「風の吹き過ぐ」ところは、見えたのか。

小田亜起子なる<わたし>は、蟻に、好奇心を持ったのであって、同情を覚えたわけではない、と思われる。

絆は得たかも知れない。
呆けることはないか。さみしくないか。

<わたし>も蟻

この生きている世界

死後の世は誰もしらねど晩夏光きらめく山なみ房総の海(小田亜起子)

『同』
「同」より

小田亜起子・連作「地獄覗き」の、この一首が、掉尾を飾る。

小田亜起子「地獄覗き」ひとり残されたこの人生を採点すると

やはり「死後の世」というものを意識しておいでである。

死後

死後ってほんま何よ。

何よ?

そんなことは知らん

ただ

死後や地獄が気になることを読み返せば読み返すほどに、その裏返しに、この生きている世界を闡明にすることを果たしていないか。

晩夏光

4句目「晩夏光きらめく」の「きらめく」は、「死後の世を」の初句と円滑に呼応して、生死の境を美しく極めた。

一女性の、もう若いとは言えないが、しかし、まだまだ華の時代の生命であることが、この一首に、しぶきをたてていることが目に見えないか。

山と海

山なみともあれば、遠雷の一つや二つもあろうか。

が、この遠雷は、地獄であれば常にとどろいてもいよう雷鳴ではあるまい。人々の生きている、どこかで蝉も鳴いていよう世界にこそ、ふさわしい。

海もまた、海であれば、海鳴りがあろうか。

海鳴りもまた、この世界の自然として、生きている者にしか聞こえない悦楽、あるいは、生きている者の快癒のために発生しているのではないか。

ビバ
小田亜起子

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