
目 次
わかりやすい歌なのであるが
そういえば愉しいときは在ることに気付かなかったメリーゴーランド(中川佐和子)
KADOKAWA
『現代短歌アンソロジー』
平成二十七年下巻(人)より
わたくし式守の、これも、大好きな一首である。
一読で意味がわかる。
そうそう、ともなる。
人間が自ら作った公理の神髄とも思える。
公理の神髄とはまたたいそうだが、そうとも思えるんだからしかたない
忘れてしまうものは「メリーゴーランド」であること。
「メリーゴーランド」を忘れてしまうのは「愉しいとき」であること。

そうか~?
一方でわからないこともある
でも、わからないことも、なくはない。
わからいこと?
どこがわからない?
こういうことなんだ
1「そういえば」ってなった契機は何?
2今は愉しくないの? 愉しいの?
3そもそもなんでメリーゴーランド?
そんなこんな。
で……、
この一首がなぜおもしろかったのか、その理由を、最近、整理できた
そういえば?
読み返す。
そういえば愉しいときは在ることに気付かなかったメリーゴーランド(中川佐和子)
メリーゴーランドを、<わたし>は、忘れていたらしい。
わたしなど、メリーゴーランドに乗ったこともないが、メリーゴーランドが、恋人たちや親子の幸福の具現であることは、何だか嫌な言い方になるが、刷り込まれてはいる。
そんなメリーゴーランドを、<わたし>は、今になって思い浮かべた、と。
メリーゴーランド的幸福から離れた局面に身を置いておいでなのだろうか。
あるいは、メリーゴーランド的幸福に知らず身を置いて、それはもちろん歓迎されるべきことで、あ、「そういえばメリーゴーランド」となった、とか。
今は愉しくないの?
いや愉しいの?
昔は、とまでは言わないが、メリーゴーランドにまつわる、そこでの幸福な時間があった。
幸福が。
で、
今、なんだかシアワセだわ~、となった。
あ
メリーゴーランド
あるいは、いや、
ユーツだわ~、となった。
あ
メリーゴーランド
という二つに一つやね
順に措辞を追えばそうならないか?
そして
幸福なのであればメリーゴーランドは思い出さない、と一瞬は読んでしまう歌意のようでいて、事実、そういう理屈で今の今までは思い出すことがなかったのであるが、たった今、ちょっとルンルン(死語)になってメリーゴーランドが思い出された。
かも知れないし、がびーん(死語)となってメリーゴーランドが思い出された。
いずれでも
今のこの気持ち、ほら、ほら、あれ、
あれ何だっけ?
遊園地にある、あれよ、あれ。
ってなって、おお、この世にメリーゴーランドなんてものがあったっけな、と。
そうだ
メリーゴーランド
と、一粒で二つを味わえる、
と、読んでみるのはどうよ、
と、いうわけよ。
幸福だから? 不幸だから?
どっちでもいいわけよ
もう
でもなんでメリーゴーランドなのよ
読み返す。
これで最後だ。
そういえば愉しいときは在ることに気付かなかったメリーゴーランド(中川佐和子)

でも、なぜメリーゴーランド?
なぜ?
なぜ?
メリーゴーランドのそばにいる?
メリーゴーランドに乗っている?
あるいは
メリーゴーランドなんてどこにもない?
<わたし>なる中川佐和子の目の前にないんじゃないか。メリーゴーランド。
この世にメリーゴーランドは架空のアトラクション。みんなメリーゴーランドと呼ばれているあれを目にしてはいるが、実は、そんなものは存在していないのである。
そうとも思える措辞はどこにもない。
ないが、メリーゴーランドなんてここにない。
のではないか。……
今のこの幸福に、あるいは、今のこの不幸になぜメリーゴーランドか、中川佐和子なる<わたし>ご本人にもわからないのではないか。
幸不幸のいずれであるかも、中川佐和子なる<わたし>ご本人にもわからないのではないか。
これこれこんなつながりで幸福からメリーゴーランドへ、との説明なんてできないのだ。
で
もしかして
で、もしかして、であるが、この一首は、ほんとうは、かなり難解な短歌なんじゃないのか
わかりやすいようでいて、実は、奥に深いテーマが。
それも混沌として、なんじゃないか。
が
結論など実は出ないことをわかりやすく。
たとえ短歌という短い詩であるとて、
文学とは、
このようなもののことなんじゃないのか。
ビバ
中川佐和子