
目 次
聴覚・視覚・嗅覚の誘導
かさこそと音する方に振り向けば潮(しほ)のにほひは身内(みぬち)より立つ(内藤明)
ながらみ書房『短歌往来』
2026年1月号
「火中の馬」より
一読して終わりにできないものがあった。わかるような気がして。
何と言ったらいいか、自分にその経験はないのに、あ、たぶんそうだったんだろうな、と。
でも、なぜ、この歌は、「あ、たぶんそうだったんだろうな」と思わせるのか。
未経験なのに強烈なリアリティは、聴覚・視覚・嗅覚が巧みに誘導した。
と、思われる。
すなわち人間が外界を認識する基本的な感覚が。
ということを以下
聴覚から嗅覚へのフェイント
何かが動いた微かな音「かさこそ」と。
警戒ではない、と思われる。この一首の「かさこそ」は、警戒が裏にあるオノマトペだとは思えない。
聴覚は、そこに、何かを期待した。
しかし、そこに差し出されたものは、視覚的な答えではなかったのである。突然の「匂い」だった。
「潮のにほひ」。
嗅覚の裏切り。
この感覚のギャップに、筆者のセンサーは、異常信号を検知した。

「外」から「内」への大逆転
また、匂いの発生源、これが、裏切り感を増幅させる。
海辺にいたとか、海から戻ってきた直後であれば、潮の匂いも、服に付いてもいよう。
しかし、この歌は、「身内(みぬち)より立」ったのである。
言い切っている。
「かさこそ」という外の世界の刺激。
反応するや、自分の中に眠っていた海の記憶や野生の記憶が、体温を伴って呼び覚まされたらしい。
とも限らないが、そうと読んでも飛躍ではなかろう。

つまりこうか。
外を向いたのに、自分の内側に出会った。
主客が逆転した。
生命の本能を総動員させてしまう
人類の遺伝子に組み込まれている海の記憶が、それを経験していないのにこの歌を理解した、としてみる。
その最大の理由は、この歌が、個人の具体的なエピソードに収まっていないことだ。
身内(身体の奥深く)から潮の匂いがするという表現は、理屈を超えて、人の身体の中には、ここでは自分の身体の中であるが、今も海に流れている、生命としての本能的な納得を獲得させるものがまだあるからではないか。

人間の根源的な感覚。
人間の祖先は海にいた。人間の血液や羊水の成分は海水に近い。
短歌のセオリーではないからこそ
読み返す。
かさこそと音する方に振り向けば潮(しほ)のにほひは身内(みぬち)より立つ
特定の誰かのいつどこでという個人的な思い出は語られていない。
短歌は具体的な方がおもしろくなるセオリーがあるが、この一首では、あえて具体的な背景を隠して、音に驚いて振り向く、日常に誰にでもあるアクションが詠まれた。
ここに、身体の内側にある海の記憶が、カチッと結びつけられたらしい。

自分の脳内に眠っている筈の海辺の記憶や生命としての本能を総動員して、内藤明さんの手による歌なのに、自分の体験として、この歌は、脳内で再生された。


