長沢美津「あともどりして真上より」偶然に支配された一瞬に

それは人生に失望していたところに

水の底にしづみてゆきし池の鯉をあともどりして真上よりみる(長沢美津)

新星書房『車』
(こよみ)より

もうすこし眺めたかったんだろうなあ。
悔いないように。
で、「あともどりし」た、と。

でも、「あともどりし」たとて、人生の、何が変わる。
「あともどりし」たのはなぜ。

偶然に支配された一瞬

今回は、そんなものがいかに読者に定着されるか、ということを。

結論を急げば心のすきを衝かれた、ということなのであるが。

人生への失望というすき

「池の鯉」の価値

そもそも「池の鯉」であるが、そんなにいい景色か、これ。
池に鯉だよ、池に鯉。
ピラミッドの前を駱駝が歩いているよりありきたりではないか。

が、その刹那を、自分だけのものにしておいでではある。
結果、この一地点は、大廈の崩壊があってもまぬかれるかのように布かれている。

「あともどり」する価値

いかにも唐突で気がさすが、人生には、保つべき区別というものがある。
たとえば、それが有益なのか無益なのか、とか。

そこには、飽くなき合理化を推し進める、この国に古くからある圧力がある。
無駄な時間を過ごすな、という訓えのことであるが。

わざわざ「あともどりし」ないのである、日本人は。

無駄な時間を過ごすためらいは、ただでさえ縛りのある日常を、いっそう不自由なものにしてしまう。
そして……、
気がつけば……、

人生の残り時間は少ない

捨ててしまった時間

合理主義や同調圧力のために捨ててしまった時間がないか。

風をも追い抜いて人は急ぐ。
そのこと自体は、わたくし式守は、否定していない。

戦争を生き延びた人たちは、その道徳を基盤に、この国を、とりあえずおおかたの国民が衣食住の足りている国にしてくれたのである。
ほんとうにおつかれさまでした。ありがとうございました。

しかし、その過去に、置いてきてしまった時間と場所というものがある。
そのいちいちをここに挙げることはしないが、失ってしまった、たいせつなものがある、ということ。

が、それは、日本史上の、時代推移だけに着地する話だろうか。
現代の、個人レベルでの人生とも、そのまま整合してはいないだろうか。

脱出する/逃避ではない

水の底にしづみてゆきし池の鯉をあともどりして真上よりみる

もとより現実から逃避する類の歌ではない。
そのようなテイストの歌ではない。

この国の、それはつまり、日本人が等しく組み込まれてしまっている構造からちょっと抜け出てみた。
わたしに、この一首で、そんなことが敷衍されたのであるが……。

小さな池一つが空と抱き合っている。
わたくし式守にはさしていない陽光が、短歌の世界に、ふりそそいでいた。

時には「あともどりして」みることが、悲哀のままの自己に前進を課すよりずっと有益なことがある、なんて姿に見て取れたのである。

長沢美津「あともどりして真上より」偶然に支配された一瞬に

人生の悔い

多くの人が、この人生を悔いて生きている。
偽装のまま人生の波にさらわれれば、それも、当然の帰結であろうに。

この「あともどり」の姿が、わたくし式守を、ぴしりと打ったわけは、ここにあった。

眩しかった

迷執をふりおとした天真のこころに打たれる、これは、わたしに、多分に哲学的な一首だった。

わたくし式守は、そこを見て見ぬふりをして、実は、この人生に倦んでいたわけだ。

来し方を悔いた

長沢美津とわたくし式守は、「あともどり」一つに、こうも質の差がある。

長沢美津「あともどりして真上より」偶然に支配された一瞬に

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