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纏綿たる情理
赤き字に「死亡」とわれが記したるカルテは以下が空白となる(長嶺元久)
本阿弥書店『百通り』
(むらぎもの)より
わたしに「死亡」した母がある。
しかし、子のわたしに、現在は、「空白」ではない。わが地上は、「死亡」と無縁の温和な世界がまだあるのである。
「死亡」と「記したる」時点の上空はいかなる空だった。
この纏綿たる情理に息をのむ。
わたくし式守は、死に無力な人間として、この短歌にある情理に瞳をぬらす。

アタリマエに着地しない

赤き字に「死亡」とわれが記したるカルテは以下が空白となる(長嶺元久)
そんなのアタリマエではないか、とならないのはなぜ。
あまりにもアタリマエだからアタリマエにならなくなるのである。
日常の情理で推しもしないことに、目に見える、確かな存在があったからである。
それは空白なのに、「空白」に、人として心が乱れた。
アタリマエをアタリマエで片付けられないのは、そこが平穏に営まれていても、紙一枚の差に存在する働きがあることを感知したからではないか。
カルテの空白に何がある
赤き字に「死亡」とわれが記したるカルテは以下が空白となる(長嶺元久)
この短歌を読むにおいて、わたくし式守は、「死亡」に、たとえば自分をあてはめてみる想定はしなかった。
ほんとうに死亡した人を、死亡してしまった人を、この「死亡」にあてはめた。
思慕ではない。と言って、無情でもない。
「空白」とは何?
この世界は飽きることなく死を繰り返している。
上空は無心ではない

赤き字に「死亡」とわれが記したるカルテは以下が空白となる(長嶺元久)
「死亡」と「記したる」時点の上空はいかなる空だった。
「カルテ」の主は虚空に何を遺した。
わたしに「死亡」した母がある。
子のわたしに、母の期せずして遺した威は、まだあるのであるが。
上空に
雲のならびは
無心ではあるまい
写しとられたカルテには
何もかも「空白」に転位した筈がないのである。
読み返す。
これで最後だ。
赤き字に「死亡」とわれが記したるカルテは以下が空白となる(長嶺元久)
「死亡」に「赤き字」をキャッチしている
「空白」に「死亡」を収束している
「空白」は死亡後の時間か?
そう考えちゃうなあ、あたしあたりは
この短歌は、「カルテ」の最後の一頁を写したものであるが、もっと言ってしまえば、「空白」を写した。
カルテの空白を写して、死後の人間への愛情を呼び覚ます。
生死の別に時間が貫いていないか
貫き通していないか
そして、わが内に、母の子なれば、本来は造作もないことだったのを、しばらく長嶺元久の短歌によって、「空白」によって、しばらく隠れてしまっていた愛情の波紋がしずかにおきた。
