
目 次
過ぎた日々が短歌で試される
内科医を四十年間務めたるけふも読みをり『風邪の診かた』を(長嶺元久)
本阿弥書店『歌壇』
2016.1月号
「ドラえもんのポケット」より
白衣の医師の姿は、珍しい姿ではない。
そして、『風邪の診かた』もまた、医療現場に身を置く者に珍しい一冊ではないのである。
人間に、過ぎた日々は、何を試している。
が、『風邪の診かた』一冊は、これを四十年の時を経てなお読むことで、<わたし>を、人々がめぐる惑星的な人物に映す。
むろんそこに功名の隙をうかがっているような眉色など見えない。

小説ではこうはならない短歌
この一首は、感動とか涙のとか、そのような物語ではない。
容易に感傷を誘うあさましさがない。
少壮幾時とこの人生を送ってこられた。
このような姿を、たとえば大河小説で描くことも可能であろうが、わたくし式守は、それがたった一首の短歌に収まったことに驚嘆する。
また、こうも言えないか。
小説では、もはや聖なる『風邪の診かた』の、その聖の密度を薄めてしまう。
よけいなことはしないでいい短歌
この連作に次の一首がある。
「肺炎を起こし最期を遂げました」喪服の妻はしづかに語る(長嶺元久)
△を/○○が/語る、スタイルは、ただそれだけである。
「喪服の妻」がこう告げたのであれば、故人に、<わたし>がどれだけたいせつな存在だったかは知れる。
「しづかに」は、故人と<わたし>への礼儀かと。
にしたって、△にも、○○にも、語ることにも、表現らしい表現はしていない。
それがいい。
その人生に眠りも得ぬ百千の憂を集めて生きてこられたことがうかがえる。
このような福徳はいつ身につけたのか
おそらく「いつ」なんてないのだ。
一人生をかけてつくられたものは、気がつけば花が咲いていて、地中に、その根があるものなのである。
<わたし>は、苛烈な職域に足を置いてなお、『風邪の診かた』を、人生から手放すことがなかった。
医師の人生の得失に終わりはない。
<わたし>は、あくまで人間でしかない。
正しく負い目を持つこと
この連作の掉尾は、次の一首である。
ドラえもんのおなかのポケット欲しきかなわれの纏へる白衣にひとつ(長嶺元久)
みんなドラえもんをほしがる。
いくつになってもドラえもんがいるのび太を羨むのである。
しかし、この医師は、自分がドラえもんでないことを恨む。
『風邪の診かた』は、ドラえもんの四次元ポケットにあるどの道具にも敵わないが、これを四十年も手放さないことで、人々の惰気を覚ますに余りある一冊にした。
花が咲いてアタリマエの人生ではないか
この一首は、自分のこれまでの日々などあまりに幼稚におもえて心を噛まれるが、いつまでも新鮮な感度を失わない人生の医師があることに、わたくし式守は、この世界を呪ってはいけないことを改めて知る。
