
目 次
神は寂しむ
けはひなく降る春の雨 寂しみて神は地球に鯨を飼へり(睦月都)
第二十七回(2016年)
歌壇賞・候補作品
「けはひなく降る春の雨」より
あ、飼ったのか、と思った。
地球に。
神さまだからな。
飼へり
神さまともなれば、たとえばこの世界にあまねく愛をひろげるために鯨を遣わしたとか、それは愛の使いとしてとか、まあよく聞くそんなこんなではないようだ。
飼った、と言えば、飼ったのである。
あくまで飼ったのである。
地球に
また、この世界が創造される過程のような、たとえば太古以前の海をイメージすることもできない。
この一首は春である。
季節があるのである。
マグマの海であろう筈がない。
春の雨は寂しかろう
そりゃ寂しいわな。
「けはひもなく」だそうな。それはもう寂しそうな雨ではないか。
で
ここで、神さまが鯨を飼ってみたのはなぜですか、となる。
神さまが鯨を飼うことにした、これは、ご自分のためなのですか、と。
神さまほどのお方だよ
そんな利己的か~
たとえば誰かのため、とか
誰?
神さまはおやさしい
けはひなく降る春の雨 寂しみて神は地球に鯨を飼へり(睦月都)
この一首は、歌作動機に、底の知れないものがないか。
神?
この神は、<わたし>に信仰しているものがあって、その信仰上の「神」ではあるまい。
<わたし>に信仰しているものがあって、フツーにその信仰を背景に詠んだものなのかも知れないが、わたくし式守の目に、この一首は、そのような神とは映らなかった。
人間を超えた存在としての、これは、あくまで表現上の神といったところか。
鯨をいちばん必要としたのは
神が鯨を飼ってみた、と。
初めて読んだ時に、この「飼へり」には、総合誌『歌壇』から顔を離してのけぞってしまったことを今も忘れていない。
わたくし式守に、この一首は、短歌というものを読むようになってまだほとんど時間がたっていない時だった。
短歌をずっと読んできて、その先にこの一首がある人はどうかわからないが、短歌の、中高年ニューカマーは、この「飼へり」が、どれだけ衝撃だったか。
衝撃があって、そして、こう思った。
この作者はどれだけ孤独を覚えておいでなんだ。
睦月都なる歌人はおいくつだ。
ほとんど一昨日じゃないか。
<わたし>が
ここに
寂しそうに
寂しいのは、要は、<わたし>ではないのか。
鯨でなければならなかったのだ
読み返す。
これで最後だ。
けはひなく降る春の雨 寂しみて神は地球に鯨を飼へり(睦月都)

春。
人の気配もなかった。
<わたし>の寂量感は、広大な海の規模で、<わたし>を蝕んでいたに違いない。
そうとも思える結構だと、当時、何度も読み返してみたものだったし、都度、わたくし式守の胸を突き上げた。
つまりこうか。
鯨はともだち。
ともだち?
束の間の鯨の<わたし>
地球をいつか鯨が呑み込む日 笑ふ 震へる 軋む 大地は(睦月都)
同
「けはひなく降る春の雨」より

この一首もまた、神によってもたらされた鯨による、人類への罰だとか何だとか、まあよく聞くそんなこんなではないようだ。
この鯨は鯨を象った人間なのだろう。
いつしか自分も鯨になっていたところの<わたし>なのだろう。
<わたし>も鯨
と言って、この世界を統べるが如き生命体ではない。
が、この世界に、何かを、自ら働きかけられる生命体として立つことを、今は、夢見ておいでのごようすである。
たとえば、「大地」を、そこに足を踏めば、美しくひろげられるような。
しかしずっと海の底にはいられない
海底(うなそこ)に春の鯨は歌うたふくぢらは愛のいきものなれば(睦月都)
同
「けはひなく降る春の雨」より

<わたし>に、愛のためにこの世に在ることを、いつしか悟ったフシがうかがえる。
自覚して、そして、「歌うたふ」と。
が、<わたし>はまだ、「海底(うなそこ)」に身を置いている。
「春」に若者がまだ外に出ないことに、社会は、寛容である。
それでは、いつまでたっても、「大地」を、そこに足を踏めば、美しくひろげられる歌などうたえまいが。
しかし、<わたし>には、「愛のいきもの」なる自覚がある。
モラトリアムに身を置いて、逃げられるものは逃げるために、歌をうたっている程度の若者ではないのである。
また、それは、海のためだけでもない。
海の底にいつまでもいられないことを判じ得ない程度の頭脳でもない。
海底は、<わたし>の、睦月都の、その人生に、すばらしく価値ある一時期だったのではないか。
若い女性の、それはみずみずしい連作でした
敬うに余りある
短歌を始めたばかりなのを、わたしは、まことよき連作を得られたらしい。
式守は、睦月都なる歌人が、ご自分を受容して、決然と将来を誓う瞬間に、期ぜずして立ち会えたらしい。