
目 次
強く生きているように見える
あきらかに四十歳(しじふ)半ばを過ぎてゐる女が一人御神籤(おみくじ)をひく(武藤雅治)
六花書林『鶫』
(なめくぢら式)より
このような短歌に、わたくし式守は、偏愛してしまうところがある。
ほしいままに空想がわくのである。
そして、何を思うにも、その思いを妨げるものがない。
「あきらかに四十歳(しじふ)半ばを」の「あきらかに」ですでに、おや、となった。
まずは、そのあたりから。
女性の手の「御神籤」に目を移す前に、この一筆書きのようなスケッチ一つで、女性一人への、作者のオドロキが、みずみずしく伝わった。
中年女性の抜群の存在感
ほんとうは「五十の阪に、手がとゝ゛いている」(『地獄変』芥川龍之介)かも知れない。
あるいはとうに越えているかも。
四十代前半はないだろうな、
そういうことに、上句をまるまる費やしておられる。
おお、ってなんない?

小説では得られない「御神籤」の美しさ
この女性は、何かに追いつめられておひとりなのか。
ひとりでたくさんだからか。
わからない。
わからないが、この一首の「御神籤」一語は、胸につかえる。
女が一人御神籤をひく
上句は、少しでも正確を期すための言語の手当てがある。
下句は、あたかも、おい見てみろよ、あの女、と言っておいでのような、スケッチとしてはラフである。
そして、この女性の人生に、この「御神籤」は、わたくし式守に美しく目に映った。
御神籤が? 人生に?
そんなたいそうな話か?
え~? 美しく見えないかな~?
生きていることそのものじゃん
幸か不幸か
小説では、中年女性がそれもひとりで御神籤をの、この理由を知った上で読む。
これがプロローグであっても、理由は、読むにつれて知れよう。
しかし、空想の飛躍が、短歌は、小説よりはるかにゆるされている。
あれっ?
そんなことない?
中年女性がそれもひとりで御神籤を、となれば、現代の常識相に照らせば、幸福とは背中合わせだ。
この一首の女性は、この前後に、どんな物語があった。
なんだか生きている
読み返す。
あきらかに四十歳(しじふ)半ばを過ぎてゐる女が一人御神籤(おみくじ)をひく(武藤雅治)
すると、

最強の女性光臨
御神籤の結果は、どんな。
これからの人生はどんな。
でも、いや、ほんとうに。
今夜も真上に昨夜の月が。
されど、御神籤に手を伸ばす女性を思えば、昨夜と同じ寂漠ではない。
というほどに。
短歌とは不思議な文学だ。