
目 次
短歌にそれをどう階層化するかがたいせつらしい
身を捨つることなどつひにあらざらむ終の棲家の仙人掌の花(武藤雅治)
六花書林『鶫』
(こんなところに)より
一生をここで暮らす家に仙人掌。そこに咲く花。
なるほど。
「仙人掌の花」で、まだ長い前途に、盤石の安定を覚えられる。
が、淡く縁どられた諦念がないでもない。
「身を捨つることなどつひにあらざらむ」人生に、これでいいのか、寸時の逡巡がある。
で、どんな「仙人掌の花」?
「仙人掌」て何

となると、「仙人掌」は、この人生の悔いへの抵抗か。
たとえば、暮らしにちょっと工夫をしてみました的な。
でも、そうかなあ。そういう歌じゃない気がするなあ。
つまりこうだ。
人生に欠いているものを何かで補えないか、その程度の動機で、「仙人掌の花」を、このようには咲かせられない。
人生に「身を捨つる」がごときまねを、みんなちょっとは思ってみるものだ。
ほんとうにそうしちゃうかどうかは、人生のいたずらである。
ここでの「仙人掌」は、その「花」は、そんないたずらに遭わない、清浄の情愛である。
だから「花」が咲く。
わたしは、この一首を、そのように読みたい者である。
一首の中の階層のどこにサボテンがあるのか
サボテンが純白の階段に置かれていたグラビアを、見たことがある。
白い階段のスノッブな風景に苦笑を禁じ得なかったが、わたしは、このサボテンに詩を覚えられた。
唐突に
短歌のおけいこをはじめます
<草稿>おそうじがさぞたいへんなまっしろの階段に咲くサボテンの花
これじゃ短歌としてだめだろう。
この「サボテン」は、これを「シクラメン」にしたところで、感興になんら変わりのないシロモノなのである。
お手本と草稿の階層を比較してみよう
お手本と草稿を比較する。
身を捨つることなどつひにあらざらむ>終の棲家>仙人掌>花
家族への祈り。時の移り行くやさしさ。
これ以外は考えられない階層だ。
おそうじがさぞたいへん>まっしろの階段>サボテン>花
階段にそうじはたいへんとしたみたまではいいとする。
でも、サボテンだとほんとうにそうもなってしまうものだろうか。
サボテンでなければならない理由
わたしとてサボテンに詩を覚えた以上は、心の奥のどこかに、サボテンがそこにあるから故の何かがあった筈なのである。
それを、「シクラメン」でもいいようなつくりを、わたくし式守では、してしまう、というわけだ。
「シクラメン」でもまあいいとしようか。
されば、「シクラメン」でなければならないおもいが表現されるべきだろう。
わたくし式守では、「サボテン」を、言葉にできない。
歌にできない。
どうしてもできない。
さしあたって、「階段」に、「おそうじがさぞたいへん」程度が、わが「サボテン」の詩ではない筈なのであるが。