
目 次
緻密に語彙を手当てする

硝子目の熊は静かに幼子に針が刺さってゆくのを見てる(虫追篤)
『ダ・ヴィンチ』2022年1月号
「短歌ください」第165回
(穂村弘・選)
不気味な一首である。
しかし、ここは、確かな現実世界である。
「熊」は、「硝子目」とあらば、ぬいぐるみか。
ぬいぐるみの「熊」が「幼子に針が刺さってゆくのを見てる」、そのどこが不気味だったか。
「熊」はぬいぐるみであって、生命体ではないが、「見てる」ことは確かに「見てる」ことで、本来は動かし得ない日常の軸が傾いた。
そして、作者の虫追篤をわたくし式守が敬うのは、「見てる」先が、「刺さってゆく」ことである。「刺さって泣く」ところではない。
感触の「静かに」が不気味な世界に変幻したのは、たった2音の斡旋の差だった。
ピアノなのに非ヒーリング

突然の雨で応接間に入れてくれた老婆の奏でるピアノ(虫追篤)
『ダ・ヴィンチ』2021年11月号
「短歌ください」第163回
(穂村弘・選)
どこも切らないで一気に詠んだ勇気に拍手を惜しまない。
初句と結句をつなげると、「突然の奏でるピアノ」になる。「ピアノ」は、このように詠むことで効果的な「老婆」の手による。
この空間が、先の一首と同様に不気味である。
「突然の奏でるピアノ」が内包しているのが、「雨で応接間に入れてくれた老婆」なわけであるが、本来であれば、「ピアノ」は、こわがるものではない。が、このように詠まれた「老婆」の手によるピアノとなると、日常の軸が傾く。
強制されたとも思えないのに、この「突然の奏でるピアノ」は、人を縛りつけて放さない印象がある。
ヒーリングの指数など無である。
それはもうレコードでもCDでも同じなのではないか。そして、この短歌に包蔵されているような「ピアノ」が、最も縛りの強度がある、ということになろうか。
それが誰かは特定できない恐怖

傘立てのビニール傘の柄に残る微熱でひとの傘だと気づく(虫追篤)
『ダ・ヴィンチ』2021年8月号
「短歌ください」第160回
(穂村弘・選)
この「微熱」もまた、不気味ではありませんか。
実例をここに引かないが、たとえば座った椅子に、すぐ今まで座っていたらしき人のぬくもりがある、といった類の歌がある。
誰もいない、と思っていたのにコピー機に熱が残っているとか、まあそんなこんなの類もまた。
そのような類と、この一首は、一線を画している。
「ビニール傘」は、特定の所有者がいて、なのに<わたし>は、それを手にした。
まわりに人はいるのか。いたとして所有者はそこにいるのか。いればすぐ近くにいよう。
いずれにしても、その人は、<わたし>の知らない人である。<わたし>と所有者が、点と点で結ばれた線は、どこにもない。
ならば現実に存在していない人と同じである。
しかし、「微熱」一つで、存在していない人との交信が、ここになされた。
軸の傾いた日常を、たかだかビニール傘で、たかだか微熱一つで出現させ得た。
また、できればこれは考えたくもないことであるが、<わたし>こそが存在していない人である、ということはないか。
わたくし式守は、この一首に、恐怖さえ覚えたのであるが。
虫追篤
虫追篤さんに、拙作を引いて、その寸評を寄せていただいていました。
もう1年と半も時がたっている話で、今さらの感が拭い難く残りますが、それがどれだけうれしかったかは、そのようなことをしていただけるほど式守は名が知られた存在でもないのにしていただいた、なんてことにもありますが、その内容が、利害を超えて感動できるものだったからです。
虫追篤さんの作品は、これを契機に、ネット上で、ではありましたが、当記事のごとく知ることになりました。
また一人、いい歌人を見つけられた。
わたくし式守に短歌の道がいかなるものか、どこをどう手繰っても無力や非才が頭に浮かぶところであっても、虫追篤さんのように情熱的に、また立派な作品を世に送れるように、今後も短歌は継続してゆきたい決意を新たにできました。