
目 次
第1部:狭き門
すでにして冬なるパリよ 狹き門の向こうに見ゆる愛の火揺るる(水原紫苑)
ながらみ書房『短歌往来』
2025年11月号
「武勲」より

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
マタイによる福音書
第7章13―14節
すでにして冬なるパリよ
「すでにして」と。
知らず冬は深まっていた。逃れられない冷気が街を包み込んでいる諦念がまず初句に。
「冬なるパリよ」と。
パリ特有の灰色で静謐な空気。結句の「愛の火」と呼応する。
狭き門
マタイによる福音書第7章13―14節。「狭き門」。
滅びに至る門は大きく道も広いが、命に至る門は狭く道も細い。
救済や真理、あるいは真実の愛に到達することはいかに困難か。
厳格で狭い門をくぐると進む険しい道の果てに、ようやくかすかに見えるものに、「愛の火」とはあるものらしい。
愛の火揺るる
この歌の「愛の火」とは、神の愛(アガペー)のようでもあり、寒さの中で命を繋ぐ情愛(エロス)でもあろうか。
「愛の火」の「愛」は、幾重にも層をなしている。
その火は揺れている、と。
決して安定した強い火ではないようだ。
<わたし>であり作者の水原紫苑さんは、その火を、消え入りそうで、しかし、確かにそこに存在していることを詠んだ。
と、思われる。確かに存在はしていることを。
「愛の火」までの距離
あくまで「向こうに見ゆる」と詠まれている。
「向こうに」と。
物理的にも精神的にも圧倒的に遠くあるように読める。事実、そうなのだろう。
<わたし>は、かつ作者・水原紫苑さんは、門の手前で、凍てつく「冬なるパリ」のこちら側に留まっておられる。
「愛の火」が、自分には手の届かない不確かなものとの認識がうかがえる。
水原紫苑さんに、当然それを意識したであろうアンドレ・ジッドの『狭き門』で、主人公アリサは、純粋な愛と信仰に従うために愛する人と結ばれる門(狭き門ではないらしい)を避けた。
水原紫苑さんは、その人生に。アリサの道を選択したのかどうか、それは知らない。
が、愛があそこにある、と視認してはおられて、されど、そこへ至るまでの峻厳なプロセスの途上に、あるいは、それ以前に門の入り口で立ち尽くしてしまうのである。
第2部:うつそみの痛み
革命派シモンのミサにうつそみの痛みかかへてひざまづくなり(水原紫苑)
「同」より

狭き門の向こうは、使徒たちの受難や決意とも重なる。
シモン(ペトロ)は「革命派」か
「革命派シモン」と。一瞬、のみこめなかった。
シモンという名の者が聖書に一人ではないこと。それが一つ。
原始キリスト教団で、ステファノやパウロの強硬派を敬愛しつつも、ペトロは、慎重だったこと。
「革命」の二字がピンとこなかった。
しかし、歴史的・神学的な視点で、ペトロもまた「革命的」だった。
漁師という社会的弱者だった。それが、既存のユダヤ教の権威に抗う必要がある。まずこの決心が既にして革命である。
そして、後に、ユダヤ教の権威たちどころではない。ローマ帝国という巨大な体制に抗って、逆さ十字架にかけられるのである。
「狭き門」とのつながり
先の一首を読み返す。
すでにして冬なるパリよ 狹き門の向こうに見ゆる愛の火揺るる
「狭き門の向こうに見ゆる愛の火」、これは、ペトロがその生涯をかけて守り抜こうとしたものだ。しかし、「うつそみ(人間)」に、それは耐えがたいほど熱く、揺れ動く「神の愛」のなんと遠くにあることか。
「うつそみの痛み」/「シモンのミサ」
<わたし>=水原紫苑も、そこで、「うつそみ(現身=この世の肉体)の痛み」を抱えて膝をついていたのではないか。愛や信仰と現実の苦しみや迷いの間で引き裂かれていた筈なのである。
ペトロもそうだったのだ。また、誰よりも人間の弱さ(痛み)を抱えていた。事実、ペトロは、イエスを否認した(裏切った)消えない悔いを抱えていた。
そんな聖者のミサだからこそ、<わたし>=水原紫苑も、ここで、膝をつかないではいられなかったのではないか。
筆者はそのようにこの一首を読むが。
エピローグ:言語を絶する痛み
花買ふは贈り物のみ 存在の奥底の薔薇は神が賜ひし(水原紫苑)
「同」より
<「贈」と「神」は旧字>

「存在の奥底」と。
ある種の人間は、ここに、言語を絶する痛みが沈殿している。
ひざまづく救い
言語を絶する痛みを抱えて、作者は、また読者は、筆者もまたその一人なのであるが、完璧な聖者ではなく、傷だらけの革命家であった「シモンのミサ」で膝をつく。そこには、この痛みを知る者の前であればこのまま崩れてもいい究極の降伏と安らぎがあるのである。
「愛の火」そして「薔薇」
「愛の火」はやはり、門の向こうの存在のままである。容易に至れる道のりではないのだ。
しかし、自分の内には、薔薇が、神聖な光を放っている。それは神からの贈り物らしい。
痛みを抱えていても
<わたし>に、それはまた作者・水原紫苑さんに、確信があったに違いない。
と、思えるのである。
「シモンのミサ」で究極の降伏と安らぎを得られたように、どれほどの痛みを抱えていても、自分は神に見棄てられていないことを。
薔薇の色=明日を生きる
読み返す。
花買ふは贈り物のみ 存在の奥底の薔薇は神が賜ひし
<「贈」と「神」は旧字>
この薔薇は何色か。そこは詠まれていない。
筆者(わたくし式守)は、平凡なれどやはり紅をイメージする。風がそっと吹いてちょっと揺れているような。
狭き門の奥の火ではないが、この薔薇は薔薇で、やはり火なのではないか。
人間たちの血の色である。人間たちが暮らす世界の夕暮れの色である。
平凡な紅。これは実は代わりのきかない色なのだ。
と、考えてみるのはどうか。
紅の薔薇は、痛みや迷いの中で生きている生命の火である。
と、考えてみるのはどうか。
険しい道の果ての火と存在の奥底の薔薇を照らし合わせた時に、わたしたち人間は、再生が保証される。







