
目 次
異空間に転移させる短歌
十号坂十号通り商店街いつ来ても人居らず豆腐屋(光森裕樹)
第54回(2008年)
角川短歌賞
「空の壁紙」より
知らない道に迷い込んでしまったのではない。
「十号坂十号通り商店街」なる名がちゃんとある道をよく歩いておいでのようすがうかがえる。
ひとりここを歩く姿が目に見えるようでもある。
ひとり
十号通り
あたかもサイバースペースに転位して左右を確認しているかの印象もないか。

商店街の表現
この「商店街」は、当然であるが、短歌としての表現の手当てがされている。
だから、ほれ、わたくし式守は、ここを、異空間とも覚えたのである。
「十号坂十号通り」なる名が、平凡に落ちず衒われた奇に落ちず、その異空間性を生んだのか
しかし
この「十号坂十号通り」以外に表現らしい表現は何。
「いつ来ても人」は「居」ない
「豆腐屋」がある
サイバースペースで商いを?
わたしが知らないでいるだけで、ほんとうは、サイバースペースこそで主な商いを?
ぬぁんてことぁないでしょうが、そう思ってもおかしくない時代ではあるな。
平成30年の日本国内のBtoC-EC(消費者向け電子商取引)市場規模は、18.0兆円(前年16.5兆円、前年比8.96%増)に拡大しています。
経済産業省
「電子商取引に関する市場調査の結果を取りまとめました」より
十号坂十号通り商店街

もちろんリアル世界の商店街として「十号坂十号通り商店街」の印象に近い商店街を通ることがある。
その商店街たるや……、
(あ、いや、現代の商店街のほとんどはこうかも)
さして繁盛していない八百屋があって、携帯ショップだけが、生々しく現代社会を視覚化している。
そして、ぽつんと「豆腐屋」があるのである。豆腐屋がやっぱりある。
豆腐屋はある
豆腐屋の表現
わたしが通ることがある商店街の豆腐屋は、早朝、自転車でこの店の前を通ると、よそはまだ眠りの中を、黙々と老店主が働いている。
八百屋はまだいい、として、この商店街はこれまで、多くの店が店をたたんで、また新たな店が出ては、その店もほどなく店をたたむのである。
豆腐屋は残る。
豆腐屋は残る

人々はそれを特殊なものとして共有している
豆腐屋に必ずしも老店主がいるとは限らないが、老店主に通底する何かが、実は、各地の商店街の豆腐屋にあるのではないか。
人々は、商店街で、それぞれぴったりと同じものではないが、しかし、やはりそれを特殊な存在として豆腐屋を胸に収めているのではないか。
携帯ショップも八百屋も、人々は、これを原風景としているかも知れない。
しかし、特殊ではない。
豆腐屋だけに、それを言語化はできないが、人々の共有できる特殊性がある。
豆腐屋だけ

読み返してみる。
十号坂十号通り商店街いつ来ても人居らず豆腐屋(光森裕樹)
結句の体言止めは、八百屋でも携帯ショップでもダメ。花屋もダメ。ケーキ屋は論外。
「十号坂十号通り商店街」の存在は、サイバースペースの一角にあるが、光森裕樹の短歌によって、現実世界に映し出された。