
目 次
匿名が破れないうちは
云つたとほりになつたと云つてひとびとが嗤ふ——わたしも云へばよかつた(光森裕樹)
本阿弥書店『歌壇』
2017.3月号
「云へない」より
ほら言わんこっちゃない、
なんてことを口にする人がいる。
そう口にする人を観察する人がいる。
そして、<わたし>は、「云へばよかつた」と悔いておられるのである。
口にする人でも観察する人でもなかった。
それがおもしろかった。

つんのめってしまった
羞恥が枷となって発言できなかった。
「ひとびとが嗤」っているのであれば、それは、小市民を覆う見解なのであろう。
その程度の見解なのだ。
それ以上ではないとの、ゆえに発言を控える教養が、<わたし>は、おありのお人なのだ。
だから黙して語らなかったのではないのか。
発言しないことが一つの矜持。
と思ったら、「云へばよかつた」んだそうな。

いずれの人も人間的ということになるかと
いずれの人も人間的です
口にしてしまう人がいます
口にしてしまう人を観察する人がいます
「云へばよかつた」と悔いる人がいます
どの人が最も人間的かなあ
いずれの人も人間的ということになるか
小市民の感覚
現代社会では、SNSで最もそれが顕著であるが、発言の場があれば、それこそ「ひとびと」は、遠慮がない。
揶揄しているのではない。
稀に、無自覚に、スマホで、ニュースの、一般の人のコメントを拾い読みすると、有識者よりもずっと読ませる意見があって、世間というものを侮ってはいけない、と自戒することがある。
そこは、「云つたとほりになつたと云つてひとびとが嗤」っている光景があるわけであるが、匿名が破れなければいい無遠慮の一方で、大衆の知を畏れることもあるわけである。
無責任な私情だけの理論
「ひとびと」は、一握りの存在を除けば、小市民に過ぎないのである。
そして、小市民に過ぎないとあれば……、
たしかに世の中は禍だらけである。
その禍に無策な人がいることを憂いて、小市民は、「嗤ふ」のである。
発言の場を持てない者としては、これは、せめてもの、その人生の表現なのであろう。
しかし、おおかたの小市民は、禍の根に、自分もある、とは思っていない
内省と勇気
云つたとほりになつたと云つてひとびとが嗤ふ——わたしも云へばよかつた(光森裕樹)
そして
このような歌を詠むことで、短歌に<わたし>を、というよりは、世間に己を晒してもみるかのスタイルを試みるお人柄なのである。
この一首に、わたくし式守は、かくして、高い、高い価値を置くに至った。
