
目 次
生きている内と外との呼応
少年と少女の声に高低のわずかにありてわが前後ゆく(三井修)
角川学芸出版『海図』
(筑波嶺)より
一読して清爽の気に搏たれた。
「少年と少女」が前方をこっちに歩いてくるのか、あるいは、背後から抜かれたのか。その「声に高低」の差があった、と。
三井修の歌を読むと、そのどれもが、とは言わないが、語彙レベルで特別なものなどないのである。
修辞上の、たとえば派手な、たとえば華麗な技巧があるとも思えない。
が、プロパーな歌人であれば、容易に、こう作れてしまうのか。
これと同じ場面を、たとえば派手に、たとえば華麗に詠むような歌人だっていよう。
それはそれでいい。
だからと言って、この一首が、やっつけ仕事で完成した短歌には映らない、ということである。
わたくし式守は、この一首を読むにおいて、作中の<わたし>と前へ、前へと進む。
少年と少女が、一時(いっとき)、そばを通った体感を得られる。

人一人の独占世界=圏域
夫婦でも恋人でも、親でも兄弟でも踏み込めない世界を、人一人、内に誰もが持っている世界がある。
愛した人には、そこに足を踏むことをゆるす。
が、愛してもいない人にずかすか踏み込まれると、そいつは、激しい憎悪を持たれることになる。
わたしはこれを「圏域」と呼んでいる。
圏域の外延は、その時々で、伸縮する。
背後に、何かを感知した時である。
圏域の背後に何かを感知すること
森の樹がみな手を垂れて夜(よ)となる時われの後に椅子置かれたり(前川佐美雄)
短歌新聞社『捜神』
(野極(梅雨五十吟))より
ここにいてはいけない、
と、言われている気になった。
実際のところは知らない。
この作品の他の読みにどんなのがあるのか、たまにネットにさぐるが、まったくヒットしない。
「森の樹がみな手を垂れて夜(よ)となる」このような表現を、一生が何生あっても、わたくし式守では無理であるが、式守が一驚を喫したのは、その表現よりも「われの後に椅子」が「置かれ」あることだった。
これが実景であったとしても、この「椅子」の存在は、何も注意深いがゆえに発見したものでもなかろう。
されど、独特の角度をとって、「われの後に」感知しされたのである、「椅子」が。
そもそもほんとうに「椅子」だったのだろうかか。
感知した何かは、人間の目に、たまたま「椅子」に見えるものだった、とか。
圏域の内にいよ、と背後の何か
水の底にしづみてゆきし池の鯉をあともどりして真上よりみる(長沢美津)
新星書房『車』
(こよみ)より
池からすこし離れてはみたのだろう。
だが、そこを離れることを、<わたし>は、惜しむことになった。
ついては「池の鯉をあともどりして真上よりみる」ことにしたのである。
「池の鯉」が「水の底にしづみてゆきし」であることも、季節がいつかは知らないが、ぞっとするほどの凛冽の気がある。
なぜ「あともどりし」たのか。
背後に、それは、圏域の外で、何を感知したからであろう。
「池の鯉」に何か未練でもあったか。
未練かどうかは知らないが、ただ、確かめないでいられないことがあった、と言ってはよかろうか。
確かめないでいられないことの、その確かめるとは、たとえば何。
それは、<わたし>にもわからないままにだった、のではないか。
「圏域」=<わたし>

そう、ここで鑑賞してみた短歌の「圏域」こそが、短歌一首に内在する<わたし>ではないか。
わたくし式守は、釣りをする以外は、まったくのインドア派であるが、それでも思い出の一つに、こんな自然がある。
夕立にぬれた樹々のあいだに渓流が透いて目に入った。
一言、美しかった。
また、こうも思った。
中高年が口にするには勇気を必要とするが、これは希望か、と。
希望を外に、圏域の内外に、<わたし>は希望を捨てられないとか、あるいは、<わたし>はすっかり失望してしまったとか、この人生を生きる<わたし>が変幻するわけである。
そのような圏域、いや、<わたし>というものが、確かにそこにある一首として、わたしに、この短歌は、胸に刻まれている。
少年と少女の声に高低のわずかにありてわが前後ゆく(三井修)
まったく
いい歌だ