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短歌には短歌の作り方があるらしい
正座して夕陽見ている犬のいて明日の予定はみなばかばかし(三井修)
角川学芸出版『海図』
(バーボン)より
何回読んでもおもしろいなあ。
三井修の歌が好きである。
天を仰ぎたくなる歌が他にもたくさんあるが、この一首は、わたしに、特別な意味を持っている。
人に生まれて

人間の生命の価値を、犬の生命が、脅かしている。
そう
脅かす
たとえば、猫がのっぺり日向ぼっこをしているとする。それを歌にしてみたい、となったとする。まず猫がうらやましくなる。
これを猫の天禄とすれば、人とはなぜこうもあくせく生きているのか、と。何を求めて人は生きているのか、と。
人として生れてきたこの世界と機微な交渉に迫られるわけだ。
人としてわが身を顧みて
「正座して夕陽見ている犬」にしてすでに何だかおかしいが、わたしは、下句の「明日の予定はみなばかばかし」で、わたしがなぜうまい歌い手になれないのか、一つ知ったことがあるのである。
「正座して夕陽見ている犬」に、人としてわが身を顧みて、これを、「明日の予定はみなばかばかし」とはできないからではないか。
わたしが、猫を見た、とする。すると、人と比較した猫、あるいは、猫と対照させた人についての散文をつくりあげるのである。
短歌は、その先にある。
観念を、短歌の体裁にレスポンシブデザインするわけだ。構築した観念のどこかを削るようにして。
これではどんなにがんばったっていい短歌にはなるまい。
せいぜいがよくできた要約だからである。論文にでもした方がまだよい。
まねをしてみる
明日の予定はみなばかばかし
ここを
わたしだったらこうしてしまうだろう。
うらやましいな人と比べて
これじゃダメなのだ。
これじゃダメとはこういうこと
これでは散文の一部なのである
しかし、
最初からこのサイズだった言葉を定型に盛りつけた
唐突に美しい夜空
この惑星に、美しい夜空がある。
唐突であるが
星空とは、天工の美である。
たいそう唐突であるが、こんなものを地上の人ごときの手で描くとなれば、イラストにするのと、水墨画にするのと、まったく別々の手法が選ばれるであろう。
また
こうも
この世界の真とは何か。
これを説くのに、論文もあろう。エッセイもあろう。
短歌では
短歌という詩で訴えたいのであれば、短歌という詩なりの色使いがあろうし、そこでの線の引き方も、短歌ならではの、固有のものがあるに違いないのだ。
短歌には短歌の作り方があることから
それをわたしは、論文やエッセイを書くように短歌をつくっていた。
そりゃそうだ。
観念ありきであれば。
短歌には短歌の作り方がある。
まずそこからだ。
