
目 次
死に連れてゆく力
待てとしか教へぬ犬に先立たれわが終末をまつ日日長し(三留ひと美)
本阿弥書店『歌壇』
2017.8月号
「単衣」より
飼い犬が死んでしまったが、<わたし>はまだ、こうして生きている。
というハナシからはみ出している心情が肺腑を破る。
「待て」だけは理解していたのに、逝ってしまうのを待て、と言っても、犬は従わなかった。
従いようがない。
<わたし>がどんなに愛していようと、死に連れてゆく力の方が、<わたし>の「待て」よりも大きいのである。
どうしようもない。
<わたし>の喪失感に言葉もない
察するに余りある
死を妨げる力
一方で、<わたし>はまだ生きているわけであるが、これが、まだどころではないらしい。
<わたし>ご自身が、死は、まだまだ先の体感があるごようすであるし、読者の、わたくし式守にもそう目に映る。
健康が死を妨げている。
が、めでたいことではないか、とは言えないものがないか。
いや、結論的には、やはりめでたいはめでたいのである。
が、めでたい、と言ってはいけないような気がする、これってなぜよ、ということですよ。
なぜ?
犬に残されたさびしさ
わが終末を迎える力は、<わたし>に、まだ働いていない。
「待て」を理解していたのに、犬の方は、早々と、「待て」より大きな力に連れてゆかれた。
この一首は、結句の、「日日長し」に、嘆息に落ちた諦念がうかがえる。
<わたし>ご自身よりも、犬の方を生かしてあげたかったかのニュアンスもないか。
「終末をまつ日日」と。
この結句によって、まだ生きているとは、若者の、まだ生きていると大きく異なることを改めて知る。
わたくし式守に、死生観が、更新された
終末をまつ日日長し
読み返す。
待てとしか教へぬ犬に先立たれわが終末をまつ日日長し(三留ひと美)

この「日々」に、宇宙にひとり残されたような、茫然ともなる時間の流れが見える。
暗黒の無限の空間は、なにひとつ物音はなく、静寂に充たされている。この先に生存の脅威などもうないかの如くではないか。
生きていることよりも、これは、むしろ死のイメージではないのか
されば
犬とはなおつながりがある、と考えてみるのはどうか。
その声を聞くことは叶わないが、今は、犬が、<わたし>に、「待て」と言っている、と考えてみるのはどうか。
犬よ、犬
聞こえるか
元気に生きていてほしいよね
“生きている”とは
読み返す。
これで最後だ。
待てとしか教へぬ犬に先立たれわが終末をまつ日日長し(三留ひと美)
お迎えが来るとか来ないとか、そのような話を、若い時よりもよく耳にするようになった。
意気の上がらない話題だ。
と言いつつ、このわたしに、還暦前にして既に、そのお迎えとやらを、ぼんやりイメージすることが出てきつつある。
まだ生きているのに。
まだ生きている

わたしの“生きている”は、若者の“生きている”寄りだろうか。あるいは、この一首の<わたし>寄りだろうか。
さしあたり、わたしに、死を妨げる力がまだ働いている。
まだ生きているとはまこと何よ。
何よ