
目 次
短歌に豊富な感情と平凡な語彙は両立可能
障子張り部屋あかるくもなりにけりひとりすわるもいつもの所に(三ヶ島葭子)
創元社『三ヶ島葭子歌集』
大正九年/秋雨より
何なんだ。
目に袖口をあてたくなるこの光景って。
下句が、わたしの心をグサリと刺した。
語彙レベルは、いずれも平凡ではないか。
なのに。
なぜ?
暮らしの感情量/一首の感情量

ひとりすわる/いつもの所に
痛ましいなあ
痛ましく感じないわけないな
そもそもが、「部屋あかるくもな」る前の「障子張り」にすでにして、<わたし>は、「ひとり」だったのだ。
人は、自分の暮らしている場所を、その体積で説明できない。
暮らしの感情量は、暮らしの体積を基に計算できるものではないのである。
短歌も同じなんじゃないか。
一首の短歌が包蔵する感情量は、その音の数と互恵していまい。
孤独
唐突に
短歌のおけいこをはじめます
<草稿>背が高い順の人形 統制のこころのなんとすずやかなこと
作者(それはわたく式守のことであるが)のおもいが見通せないことはない。
ある種の人は、そこに硬質な秩序を認めると気分が落ち着く。
すこし散らかったところを片付けることは、脳に直接働きかけて気分を落ち着かせる営為なのである。
また、ここに、わたしなりの美意識もある。
しかし
「背の高い順の人形」に、わたしは、自身の孤独を覚えた。
が、
美意識もいいが、その感情はどこに。その感情はどれほど。
束縛も宿命も孤独は平凡な語彙で伝えられる
そして、その孤独は、危険を孕む。
お手本を見直す。
障子張り部屋あかるくもなりにけりひとりすわるもいつもの所に
この一首は、わたしを、まことひどく動揺させるのである。
束縛があって。宿命があって。
そこに無言の喘ぎがある。
ひとり/いつもの、と、語彙は平凡なのであるが。
感情を支える語彙
人間の感情とやら……。
ひとりすわる/いつもの所に
短歌であれば、豊富な感情量も、この程度の負荷の語彙でも再現できるらしい。
