
目 次
待ってくれたろう
待つように言ったら待ってくれたろう二十分でも二十年でも(松村正直)
書肆侃侃諤房
『短歌タイムカプセル』
東直子 佐藤弓生 千葉聡
編著
松村正直
『駅へ』より
待っていてくれないか、
と、言えなかった。
そして、現在、その人と人生を歩んではいない。
と、読めた。
二十分待っててね、
と、これは、言えなくもない。
一人にさせちゃうけどごめんね。
それだって、若い二人がやっと会えた休日には、短くはない。
二十年待たせてしまうかも、
とは言えるものではない。
いや、言ってもいい。
お相手がそれをのみこんでくれる見通しもある。
でも、二十年、他の人生を選べなくする縛りなどできるものではない。
どうする?
それを決められるのは若い二人だけである
松村正直/ネット/アンソロジー
松村正直の短歌が好きで、ネットで“拾える”短歌は、拾えるだけ読んできた。
ネットで。
余談以外の何物でもないが、このあたりを少し。
歌集をなかなか入手できない問題を、ここでは、しかたのないこととも、それでいいのかとも言わない。
近所の図書館になくてもどこかの図書館にないか。
取り寄せる手段ならある。その手段を知ってもいる。
が、やっと借りることができたのに、これを書き写す時間を借りられたタイミングに確保できるかどうか。
いつ借りられるかわからない。貸出延長はできない。
アンソロジーとは、こんな時に、まことに便利である。
『駅へ』については、しかし、こちら(松村正直ブログ『やさしい鮫日記』より)に新装版の案内がございます。
二十年
読み返す。
待つように言ったら待ってくれたろう二十分でも二十年でも(松村正直)
二十年の時を経て、二十年前が思い出されたのか。
それはない。
松村正直氏は1970年のお生まれ。歌集『駅へ』は2001年。
「二十年」は表現上の修辞か。
が、恋人が過去に沈んでいた短くない来し方を思った。
結果、あのひとのことで、豊富な感情量を持った。
別の人生の夢のせつなさにうたれた。
と、読めた。
3つの選択肢
選択肢は3つあった。
との断言はできないが、若者は、未来に、だいたいは次の3つのいずれかの選択を迫られる。
待たせる
だって待ってくれる見通しがあるじゃん
待たせない
<わたし>はどこにも行かない
<わたし>は<わたし>の人生に妥協するのである
わかれる
これが<わたし>の決断だった
<わたし>の決断
ありていに言えば、相手にも相手の人生があるのである。
時あたかも輝かしかるべき青春時代である。その時間を“待たせる”ことで奪えるか。
では、“待たせない”とすれば、それで事はまるくおさまるのか。
さしあたりおさまる。
されど、<わたし>は、その選択をきっと後悔するだろう。
<わたし>は、勝手だったのか。
待ってくれ、
寸時のその一言でよかったのか。
<わたし>は、勝手だったのか。
卑怯だったのか。
臆病だったのか。
そんなことは
知らん
そんなことは
誰にもわからん
あのひとはいまどうしている
あのひとはいまどうしている、というひとが、人生にはある。
ほんとうにどうしているのだろう。
ああしなければどんな人生だったのか。さしあたりあのひとに幸せな人生があった、と思いたい。
では、<わたし>は、そのあたりどうよ。
読者たるわたくしシキモリでは、どうよ。
そんなことは
知らん
そんなことは
誰にもわからん
短歌の物語性

読み返す。
これで最後だ。
待つように言ったら待ってくれたろう二十分でも二十年でも(松村正直)
女性とはまた話が異なるかも知れないが、男性は、過去の女性を、群衆の中に捜すことがある。
いそうにない、
となって、心弱く笑うのである。
松村正直さんの、この一首に、特別な措辞はどこにもない。
こう考えた一瞬がありました、と読むばかりである。
この一首の感情量は豊富にあろうが、そもそもどのような感情か具体的な措辞などないのである。
待つ?
二十分? 二十年?
目に飛び込む活字を眺めればなんと無機質な話か。
それを、豊富な感情量があるとは、読者が、ここではわたくし式守が、であるが、勝手にそうと決めてかかっているだけだ。
が、決めてかかってみると、一首に、強靭な物語性が生み出されている。
深い思い入れは極力これを排して松村正直が歌を詠めば、わたくし式守に、常、憧れの花が咲く。