松平盟子「直線の傷のごときを背に描く」されど明眸を前方に

隠された傷を背に

ファスナーをまっすぐおろす直線の傷のごときを背に描くため(松平盟子)

河出書房新社
『たまゆら草紙』
(マリアージュ)より

苦悩なんてものの、そのほとんどは、これを、いったんはすでに味わっているものだ。
たったいま悶燥に包まれていても、それは、さして新しいものでもないのである。

されど、生き延びるためには、その先が要る。
人生の流れに、地を削って、また新たに流路を延ばさなければならない。

これまでの苦悩もなお、その先を流れ進む。

傷のごときのごときとは

刑事事件の報道で、「バールのようなもの」というのがある。
報道関係者の作文ではない。出処は警察発表である。
バールと思しきものが使用されたが、バールだって断定はできていませんよ、ということらしい。
まだ蓋然的なのだ。

わたしがまだ現代歌人の名をほとんど知らなかった頃だったが、この一首は、一読して、おもしろい、と思った。
この「傷のごとき」の「ごとき」に。

「白魚のような手」なんて比喩がある。
女性の白くてキレイな手を、このように言う。
この比喩で、その女性を、手が白魚であると認識する人はいない。

が、バールのようなの「ような」と白魚のようなの「ような」は、似て非なるものだ。

ファスナーのライン

松平盟子「直線の傷のごときを背に描く」

ファスナーをまっすぐおろす直線の傷のごときを背に描くため

何かこう痛恨の色合いを帯びていないか。

性愛の場面かも知れないが、それはないかと

次の一首は性愛の場面として胃の腑に落ちるが。

ランジェリーすべりおちゆくたまゆらのうすべにいろの迷い愉しむ(ミッドナイト・コール)

これは

わたしは、「直線の傷のごとき」は、ただ帰宅した場面にしか見えない。
帰宅して、ご自身の空間を、落莫と見まわしたに違いない。

そして

ファスナーは一気に切開された。

切開

ファスナーのラインは、もはや人生の流れに似る。
傷のごときどころか傷そのものが背に現れる。

されば、衣は、傷を隠すためのもの、ということでもあろう。

人間の瞞着の始原は、肌に衣をまとったことからである。

傷とは何? どのような傷? 何者かへの贖罪?

あるいは、冷め果てた恋の怨嗟か?

そんなことは知らん

ただ、松平盟子に、その人生に、すでにして晩鐘を告げている印象が、わたくし式守の胸を衝き上げる。

描くためのためとは

「傷のごときを背に描くため」とは、「ため」とあるからには、要は、目的あってのことであろう。
あえて痛みと張り合っておいでなのだ。

「傷」が消えない。「傷」を隠しきれない。

この人生を、かくあらざるを得ず、となさっておいでのごようすでもある。
その人生に、抵抗しておいでのごようすでもある。

いずれであっても、強い痛みを伴っておいでであろう。

傷とは何か。どのような傷か。それはわからない。
が、傷は、背にある。背を流れている。

ファスナーをまっすぐおろす直線の傷のごときを背に描くため

いい歌である。

かつ短歌であるとかないとかを超えて文学だと

前方をまっすぐに見る明眸のあり。
その人生に屈服しない存在感のあり。
わたくし式守に、この姿は、敬うに足るお姿であられる。

松平盟子「直線の傷のごときを背に描く」

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