松原あけみ「逝く」自分のまわりがまだ生きているありがたさ

死がその角度をとるところ

松原あけみ「逝く」自分のまわりがまだ生きているありがたさ

高くつく夢だつたわ、とはじめての海外旅行を言ひしひと逝く(松原あけみ)

本阿弥書店『歌壇』
2016年11月号
「小鳥の匂ひ」より

人が亡くなる。
一時的に何も考えられなくなると、亡くなった人の、思いがけないところに、死は、その角度をとる。

そのような短歌は、例を挙げようと思えば、戸惑うほどいくらでもあるが、わたくし式守に、この一首は、短歌を始めてそろそろ一年くらいの時に読んだものだった。

わたしに忘れられない一首になった。

短歌を始めてそろそろ一年くらいの時に、短歌ってすごいな、と思ったことは、短歌を読みなれてからそう思うことよりもずっと感情量があるのである

と思うのであるが、どうか……

自分は生き残ること

人生を長く生きるとは、生きていた人の生命が知らぬ間にどこかに消えた体験を増やすことでもあるらしく、しかし、その体験をいくら積もうと、実感の伴う試しがないのである。

やがて自分もその一人になる。
わたしを思い出してくれる人はいるだろうか。

たとえば、この短歌のように。
はじめての海外旅行を、高くつく夢だった、と言っていたことがなぜか思い出されるように。

人生は夢のまた夢なのか

ここで、海外旅行を、夢を見るにも似る、となしたことに、そのひとの一人生もそもそも夢だった、と敷衍することができなくもない。
ついては、誰でも人生は夢のまた夢である、なんてことに着地しないでもない。

でも、わたしが、松原あけみという歌人の一首に、しばらく(まことにしばらく)目が離せなくなったのは、そういうことだったか。
そうじゃなかった。
そうじゃなかった、と思うのである。

生きていることをわかっているか

高くつく夢だつたわ、とはじめての海外旅行を言ひしひと逝く(松原あけみ)

いいなあ
しみじみと

はじめての海外旅行を、高くつく夢だった、と言っていたのである。
そのような人の、結句の「逝く」である。

ただお亡くなりになった、という情報以上の、しみじみとした情感を生み出した。

が、だからと言って、この一首に、人生そのものも夢である、との感慨は、わたしに、あれから今になってもまだない。

それってなぜ

まことなぜ

生きている人は、自分が生きていることを、ちゃんと知っているのか。
なんてことを考えてみるのはどうか。

そのような自意識を持ったことがないと?
だとしたら、だめだぞ、それ。そんなゆとりって。

個人の自由ですね

とまあそんなこんなの、この一首は、思うことが頭にたくさん浮かぶのである

まだ生きている人の価値

松原あけみ「逝く」自分のまわりがまだ生きているありがたさ

どうでもいい個人情報でまことに気がさすが、わたしは清掃作業員で、屋外作業で雨に打たれると、からだが冷えてくる。暖かいオフィスで順調に人生を送れている人が恨めしくもなる。
だが、体温は、また取り戻せよう。

その体温を取り戻すのに、控室を、いつもより暖かくしておいてくれる人がいる。温かいコーヒーをさしだしてくれる人もいる。
渡る世間は鬼ばかりではないのである。

どれだけいっしょにいても憎らしい鬼がいないでもないが、そばにいる人の笑顔に、その価値に、巨大な感情を持つことが、生きていれば少なくないのである。

誰かが「逝く」とは、その価値が、失われることである。そばにいる人に、人は、もっともっと価値を認めなければいけないのではないか。

まだ生きている人に……。

もっと価値を置く

そばにいる人がまだ生きていることに、人は、もっともっと価値を認めなければいけないのではないか。

怠っていた

松原あけみの短歌が、一読後、わたしをぴしゃりと打ったのは、そのあたりにうかつだったわたしへの、真摯な、あるいは素朴な問いかけになったからではないか。

誰かが「逝く」とはどういうことかの。

読み返す。
これで最後だ。

高くつく夢だつたわ、とはじめての海外旅行を言ひしひと逝く(松原あけみ)

人はいずれ逝く

松原あけみ「逝く」自分のまわりがまだ生きているありがたさ

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