世界とのコミットメント
柾木遙一郎さんの八首連作「翼を持たず」。
世界との不器用ではあっても真摯なコミットメントをここに読む。
世界を凝視し、自らの足で立とうとする静かな意志に、筆者は、息をのむ思いだった。
まず八首すべてをここに写す
〇 間違った季節が来ても雪解けに反射している飛行機雲は
〇 幼さを救えないままこの春も無名の街にまつろっている
〇 電球を切らしたように夜が来てそれが永遠ならばいいのに
〇 欠けているのはさびしさだ、誰も彼も行方知れずの手紙となって
〇 あかねさすこの戦争が終わったら誰のためでもない歌を書く
〇 来るはずの今日の続きを諦めるには適当な風の皐月夜
〇 顔のない他人が死んで真夜中の星の一つが静けさを増す
〇 明日には忘れしまうことばかり書き留めて、未だ翼を持たず
ながらみ書房『短歌往来』
2026年7月号
文体は決して特殊ではない。
ただ、何を指してこう詠んでいるかを明示していない。が、歌意はとれる。
そうとしか読めない詠み方はしないようだ。が、気を衒っている印象はない。
もっとも短歌とは(小説でもそうだが)、もとより解釈が一つしかないものではないが。
「間違った季節」と「飛行機雲」
間違った季節が来ても雪解けに反射している飛行機雲は
「間違った季節」とは現代のことか。どんなところがどう間違っているのか。
わからない。しかし、納得させられる。
春を迎えても、人間界には、地上だけでなく空をもわたる活動があるのである。
地上(人間界である)がどれほど混迷しているか。どれほど狂った季節(時代や状況である)を迎えているか。空の「飛行機雲」はそんなの知らん顔で反射して輝く。この自然と人工物の美しさのギャップ。
かくして「間違った」という感覚はいっそう際だった。
「まつろう」に二面性あり
幼さを救えないままこの春も無名の街にまつろっている
救えない幼さとはそもそも何。作者にとって誰。作者のことと読めそうだが、他人のことかも知れない。
誰のことであっても、ビジネス街とか繁華街とかそんなこんなの街ではないのだろう。
そのような街と対極のところを作者は出ようとしない。
「まつろう」には、支配に従う意味と神仏のまわりに寄り集まるの意味がある。
祭りであり、祀りであり、政りである。
「無名の街」に逆らわず従っているようでいて、そこはしかし、どこか神聖で、誰にも知られない平穏を守っているのかも。が、あるいは、囚われているのかも。
幼さの正体は謎である。
が、作者自身の過去とも読めようが、この世界で不当に傷つけられている無辜の存在の象徴なのかも知れない。
永遠への反転
電球を切らしたように夜が来てそれが永遠ならばいいのに
「電球を切らしたように」と。
明日を待っていない。黙っていてもまた明日が来ることに圧があるようだ。
明日が恐怖との心象は読み取れない。また、めったなことを言うものではないが、希死念慮の類とも読めない。
が、容赦なく時間は進むことに無力でることを嘆いてはおられるごようすだ。
スイッチを消したように世界が暗転してほしい。世界との繋がりをプツンと絶ち切りたい。
日常の連続性に疲弊している者の、これは、切実な願いなのだろう。
電球が切れれば、そこは、それ以上変化はない。明日への変化(何はさて圧なり)を拒むための、最も静かなシェルターとして、歌の主格は、夜を望む。
永遠への反転。
史上新しい孤独
欠けているのはさびしさだ、誰も彼も行方知れずの手紙となって
いつどこの戦争。
日本史上の戦争の印象はない。
自分では抵抗できない大きな力を感知して、それを戦争、と表現したのか。
「誰も彼もが行方知れずの手紙」と。
現代社会は、誰もが、誰かに向けて言葉を発している。すなわち手紙を書いている。が、その宛先は特定されていないのである。
コミュニケーションの不全。
過去にはなかった孤独のカタチが鮮烈に描かれた。
プロパガンダから最も遠く
あかねさすこの戦争が終わったら誰のためでもない歌を書く
「あかねさす」は、「紫」や「日」にかかる明るく美しい枕詞である。それが「戦争」という禍々しいものにかかる。
実在の戦争(ウクライナでありガザであり)の報道を、美しい夕焼け(あかねさす)の中で、記号として消費してしまう現代の歪みとも読める。
あるいはこうか。
具体的にそれと名指せない目には見えない大きなものを、戦争と表現したのかも知れない。
「誰のためでもない歌」と。
この結句は、あらゆるプロパガンダから最も遠くある純粋な人間の声だ。
突き放された安寧
来るはずの今日の続きを諦めるには適当な風の皐月夜
「今日の続き」はないことを願っているのに、間違いなく「今日の続き」は来てしまうのである。
五月の風がそれを慰撫してくれるらしい。
「適当」が秀逸である。
「ちょうどよい」という意味と「おざなり」という意味がある。
五月の心地よい風は、自分を優しく慰撫(いふ)してくれる「ちょうどよさ」らしい。
自分が今日を続けようが続けまいが、そう言ってよければおざなりなありようの風は、自分の今のありのままを肯定した。
宇宙の欠損
顔のない他人が死んで真夜中の星の一つが静けさを増す
「顔のない他人」とは単に自分の知らない人を表現したものか。しかし、無関係という関係の人にも確かな生命がある。どなたかと紐帯のある生命が。
そして、
「星の一つが静けさを増」した。
「顔のない他人の死」は、本来なら自分に関係がない。そう言ってよければ脳内のノイズなのだ。いずれは消えてしまうものなのである。
しかし、その生命の灯火が消えると、夜空の星が一つ、「静けさを増」した。
他人の死を「宇宙の欠損」として捉える柾木遙一郎さんの視座は、深い喪失感と追悼がある。
今日を五感で生きる
明日には忘れしまうことばかり書き留めて、未だ翼を持たず
明日にはもう反故になることなのにメモをとる。
そして、「未だ翼を持たず」と。
「翼」を望んでいる。翼がないことが無念。明確な「意志」が打ち出された。
しかし、そんものはない。人間には持てない。あ、いや、翼を持てる人間もいないことはないか。が、おおかたの人間に翼は永遠に持てないものなのである。
「翼」という特権的な移動手段。
安易な救済などない。
だからこそ、柾木遙一郎さんは、無名の街で、明日には忘れてしまう些細な無駄なことをあえてメモする。
そんなことを考えることもなく生涯を終える人もいる。が、柾木遙一郎さんは、そのように生きていないのだ。そうは生きられないのだ。
見渡せばほかにも見つかるのではないか、そんな地道で強固な人生を。
それを、この淡々とした文体は、静かに肯定してくれるのである。
ここにあるのは、孤立ではない。
身を巡る世界をぐるりと見渡しては、おりおりどこかと交信なさる。
連作中、柾木遙一郎さんは、かくも明日に抵抗する者なのに、今日という日を五感で生きていたのである。
連作八首すべてを通して

作者の柾木遙一郎さんは、生きていること、明日も生きることを、否定してはいないのだ。
また、ほんとうに望むものは翼ではなく、翼なんてなくても生きられる力だ。
しかし、それがないことの無念。
昨今の短歌界には、世界をただ冷笑したり、完全にシャットアウトしたりする潮流がある。
記号的な諦めの歌が少なくないことを、筆者は、否定はしていない。これも歴とした文学へのルートだ。
が、この「翼を持たず」はどうよ、ということですよ。
諦めの歌群よりも生を実感させてくれないか。非情な条件を拡大するべく生きておいでなのではないか。
そんなありようの文学もまた否定できない。
世界から目を背けずに、傷つきながらもそこに佇んでいる姿。
飛行機雲を見上げ、街の片隅にまつろい、他人の死を星に重ねる。
世界との不器用ではあっても真摯なコミットメントが、この八首連作「翼を持たず」に、確かな力を備えて存在している。

