
目 次
短歌はいのちの触角があるのか
この道の石に一つづつ消えてゆく儚きいのち鳥のこゑして(前川佐美雄)
短歌新聞社『捜神』
(野極(神の如き火))より
「この道の石」を見ているとサッと鳥の影がさす。一羽や二羽ではないようだ。
鳥の姿は映っていない。が、「鳥のこゑ」は録っている。
実体は目に映らないが、「一つづつ消えてゆく」ことを体感できる。
いのちがひょいひょいと顔を見せて去った。
が、わたしを、「儚きいのち」が、迫る。
それはもう動揺してしまうほどだ。
孤独と親和の拮抗
「儚きいのち」と詠まれているからといって、わたくし式守は、この一首に、刹那的な心情を読めない。
むしろその逆。
木の葉も草もうなだれる陽ざかりに、それはもう、孤独を観念させる色彩だとは思う。
が、その孤独を曳くことが、逆説的に、前川佐美雄には、 むしろ親和的な視覚だったのではないか。
わたしは、そのように読んだ。
そして、孤独と親和が拮抗するありさまに全身が痺れた。

短歌における影と実体
唐突に
短歌のおけいこをはじめます
<草稿>踊り場にさしかかるとき折れ曲がるわたしの影をホニャラホニャララ
あ、オレが折れてる。
それだけだ。
短歌はそもそも、動きとしては、「それだけ」の話に帰着するところがあるが、「それだけ」の内容がいい歌になるか、ならないか、それは作者次第だ。
が、この<草稿>は、わたくし式守が上達して、結句をいかようにできるようになっても、いい歌にはならないだろう。
それはもう語彙レベルやそこでの韻律のせいでもない。
お手本はこうだ
この道の石に一つづつ消えてゆく儚きいのち鳥のこゑして
<わたし>を視覚でとらえたのは、影であって、「鳥」の実体ではない。
が、影に、「鳥のこゑ」は、つけている。
前川佐美雄の短歌は、目に訴える色彩があり、耳に訴える音響があるのである。
「それだけの歌」が、いい歌になる、ということである。
アタリマエの影とアタリマエじゃない影
先の自作の<草稿>であるが、方向性として、これはこれで、詩にならないこともないのではないか。
が、現実に、そうなってはくれない。
そうはなってくれないのも、<わたし>の影とやらが、作者(わたくし式守であるが)に、折れ曲がっている、ただそれだけだからではないか。
その程度の影
その影の実体が折れ曲がっていることを詠んで、作者の実体も、読者の実体も、あるいはこの世界全体が折れ曲がっているのではないか、そのようにこの世界を疑うくらいにならないと、詩には、歌にはならないのではないか。
つまり光学的現象を、式守は、短歌の体裁にしただけなのである。これではいくらがんばってもいい歌など作れない。
お手本を三度(みたび)見直す。
この道の石に一つづつ消えてゆく儚きいのち鳥のこゑして
アタリマエの影じゃない
いのちを人に教えられるか
前川佐美雄の 、その影は、日常の<わたし>と伴に、読者たるわたしを脅かした。
それが鳥の影でも己の影でも、表演次第で、影は、何かを教える。
前川佐美雄くらいになると、影で、いのちを教えてしまえるのである。
と、まあどうもそういうことなのでは。
この道の石に一つづつ消えてゆく儚きいのち鳥のこゑして
なるほど、これが短歌だ。
いい歌だなあ。
ただただアタリマエの歌になっていない
