
目 次
キッチンで結婚式
キッチンで結婚式を挙げているハエを一度に天国へ送る(くりはらさとみ)
『ダ・ヴィンチ』25.09月号
「短歌ください」より
穂村弘・選

「結婚式を挙げている」ここ「キッチン」は、「ハエ」が新郎新婦になる教会らしい。あ、いや、神前式なのかも知れないが、でも、「天国へ」との措辞がある。キリスト教の教会をおもってみることは拙速でも飛躍でもあるまい。
ということを背景に「一度に」を読めば、ハエの生命に、儚さよりも聖性を感受できる。
ハエなんてものは食物連鎖に不可欠でも衛生的には害虫だ。そのような生命に害から聖へ転化させ得たのは、「一度に」なる語彙を斡旋する、表現上の敏捷性が作者におありだからかと。
と、筆者(式守)には思えるのであるが。
カッタルイことを語ってしまった。
「キッチンで結婚式を挙げているハエ」の舞台設定だけで十分にたのしめる歌である。
と言って、この舞台設定は、メルヘンやファンタジーではない。実景だった。
キッチンなんて日々の暮らしのまこと平凡な空間で、その実景をいかに表現するか次第では、こんなに読後感を長く保てる歌が残せるのである。
そのことに、筆者(式守)は、作者(くりはらさとみさん)に、才気を覚えないではいられない。
母はすべてを過去形で
カフェオレに入れる砂糖が止まらない母は全てを過去形で話す(くりはらさとみ)
東京歌壇25.08.10
東直子・選より

「カフェオレ」なのである。
インスタントコーヒーの粉をささっと入れてお湯をざざっと注いで飲むような女性ではない「母」の一面が初句で既にさりげなく披かれていて、読み返せばさらに、「母」をめぐる世界の厚さにうれしくなれる。
カフェオレの「母」なるお人は、しかし、「全てを過去形で話す」一面もおありである。
「入れる砂糖が止まらない」とは、つまりこれが進行中であって、進行中なのに話は過去形なのか。
「入れる砂糖が止まらない」とは、つまり砂糖の加減がわからないからで、なのに話の内容はなべてリセットしてお話なさる、そういう歌意なのか。
わからない
わからないが、しかし……
母と娘がカフェオレの時間を持つ。
母に娘はいくつになっても魅力を覚えておられる女性なのだ。
日常のさりげない場面を、そのままさりげない語彙で写して、母と娘の交歓を内在させることに、この一首は、成功したのである。
わたくし式守は、この一首を、そのように読む。そして、紛れもない秀歌だと思う。
どうだろう。
「好きです」
「好きです」は時計の中でハトになりそろそろ君へ飛び出す時間(くりはらさとみ)
読売歌壇25.08.25
俵万智・選より

<わたし>は、鳩時計の中で、そっと外を見ていた。”その時”を待っていた。
ような存在になってしまっていた。
もはや<わたし>は鳩時計の中のハトそのものと化していた。
一読者たる筆者(わたくし式守)は、この一首を一読して、まずそう思った。
が、こうも思った。
激しい動悸にさぞ苦しいことだろう、と。そろそろ、との措辞はそういうことなのではないのか。
言わなきゃ、言わなきゃ。「好きです」って言わなきゃ。
ああ、そのチャンスはもう間もなくだ。
その時間が来たら飛び出す、あたしは。
でも、
こうも思っていないか
時間が来て、果たして飛び出せるのか、あたし。
やっぱムリ。やめとこう、やめとこう。また改めて心の準備をしよう。
なんてことを、読者は、来し方と照らし合わせて思ってみる。
筆者(式守)もまたそうだったのだ。あ、いや、おおかたのかつて若かった者はその程度だったのだ。
世代間の断絶が言われて久しいが、いつの時代も、若者とはこの程度の度胸で、だからこそ未来に過去を美しく映し出せるのではないか。
この歌のように。
くりはらさとみさんの、この歌もまた、第一印象がメルヘン的、かつファンタジー的であるかも知れない。が、なに、意匠はいかようであろうと、まだまだ無力の若い人が人生の光芒を曳いている危うい時間を写し取っている傑作だと筆者(式守)には思えてならないのであるが。
あの人のそばに行こう。行くんだ。あ、やっぱムリ~。
となって、自分を遠くで見守っている友人のところに引き返す。
なんてことは少女漫画だけの場面ではなく、少女だけにある顛末でもなく、男の子にもある話なのである。それもいくらでも。
来し方は胸に苦しく、なのにその人生にかけがえがない。
あの頃、ある季節、あの夕暮れを背に、ワタクシ式守操は、ハトだったのだ。



