
目 次
前方の夕焼け
草の茂る小道を通り夕焼けの向かうにいつかゆかうと思ふ(小紋潤)
本阿弥書店『歌壇』2017.8月号
『蜜の大地』
(ながらみ書房)
<第14回筑紫歌壇賞>
小島ゆかり抄出より
前方に夕焼けを見るくらいいくらだってある。
最も夕焼けが彩る空の下に立ちたい、と思ったことも、いくらだってある。
わたしは、前方の夕焼けに、日本最大のビジネス街の大手町をイメージすることがある。
大手町が前方にある国道を、毎夕、自転車で移動するからである。
この国は、地続きに、オフィス需要が旺盛だ。
でも、この「夕焼けの向かう」は、オフィス街ではないだろう。そもそも地続きにあるところなのだろうか。
小道/億劫ではない
草の茂る道である
それも小道である
わたしが夕焼けのために大手町に行こうと思えば、自転車で1時間ちょっとかかるが、この一首の夕焼けまでは、大手町までよりずっと難儀な行程が予想される。
正しく国道を進めば大手町に行けよう。
それだって億劫である。
それをもっと億劫そうな草の茂る小道を進んでもいい、となるのは、いったいなぜ。
なぜ?

1 だからこそ
億劫そうだから逆に行ってみたい、となることが一つ。
2 確かな期待
もう一つは、ただただオフィスビルが建ち並ぶ世界があることを既に知っている場所よりも、この一首の、そこにあろう場所は、ぜったいにわたしを失望させない世界があることを期待させるからではないか。
おれだけやろか
いやいやそんなわけない
小紋潤なる<わたし>は「いつかゆかうと」と。
小道→夕焼け→いつか
読み返したい。
草の茂る小道を通り夕焼けの向かうにいつかゆかうと思ふ(小紋潤)

人間には、たかだか夕焼けの、それもその「向かうにいつかゆかうと思ふ」こころがあったのである。
いつしか棄ててしまった。
再び取り戻したい、とならないか。
草の茂る小道を通ることで、この身を容易に置けるところではないと推測できるが、なにそれだけ得られるものの大きさがあろうことに憧れるのである。
小紋潤は、この一首に、草の茂る小道を写生したかったわけではなかろう。
草の茂る小道が、この一首に、鮮明に映し出されてはいない。もっともそんな必要はないか。
<わたし>の前方の景色は、「いつかゆかう」の下句で、ありありとこの目に見えた。
結果、「夕焼けの向かう」の価値は、下句で一気に騰がった。
かくして、草の茂る小道は、わが残りの人生に、まことたいせつな小道として甦った。