
目 次
なおまだ心の目をみはる
夏みかんのなかに小さき祖母が居て涼しいからここへおいでと言へり(小島ゆかり)
青磁社
シリーズ・牧水賞の歌人たち
『小島ゆかり』
代表歌三〇〇首・大松達知選
『折からの雨』25首より
ついきのうは、木枯らしを警戒していたのが、きょうはもう、熱中症の警戒である。
夏はすぐそこ。
涼風果てにありや。
これはたとえば風の耳うちか。
ねぎらいやいたわりの類ではなかろう。
ただ「おいで」と。
死の誘いとか何だとかそのような読みの余地もあるまい。
・短歌とは、こんな夏みかんを生み出せる。
・短歌を読むにおいて、ことごとに未知の驚きを越えてきたが、なおまだ心の目をみはる。
小さき祖母

窓をあけるとすべりこむ風。
その風によって、時が、過去から現在へ、さらさらと流れる体感を持つことがないか。
今、目の下に、祖母が、闃然と輝いている。
ただし、そこは、「夏みかんのなか」であるが。
これを、わたくし式守は、メルヘン的とは思わない。
心象風景なんて括りは可能かも知れない。
が、「小さき祖母」は、「夏みかんのなか」で、<わたし>を、ほんとうに呼んでいるところを詠んだと読めるのである。
それははっきり肉声である

「涼しいからここへおいで」と。
これを、わたしは、つまり肉声である、と言いたいのである。
そして、この声に身を包むこと、ただただ自由。
この短歌の、これだけの愛しさは何。
人間の智徳で測れるようなものではないが。
人間の智徳で測れないものを、鮮やかに目の前に見せくれることを、短歌は、可能にしてくれる、というわけだ
なぜ愛しさを生み出せる

読み返す。
夏みかんのなかに小さき祖母が居て涼しいからここへおいでと言へり(小島ゆかり)
そこは「夏みかんのなか」かも知れない。
「小さき祖母が居」るかも知れない。
が、話としては、「涼しいからここへおいで」とただそれだけのことなのである。
それを、こうも愛しさが生まれるのは、それがどこだろうと、どなたであろうと、かつて自分を愛した者が「ここへおいで」と言っている光景を、人は、茶々を入れることなどできないようにできているからである。
ただそれだけ。
ただそれだけのことを、人は、少なくとも式守は、どこかに置き忘れていたような気がした。
人が、少なくとも式守が、いつしかあきらめた歌のような気がした。
ただ「おいで」の短歌に畏怖する

やわらかくただやわらかく、そのやわらかさを、わたしは、畏れないではいられない。
この身を恥じる。
自分を
愛してくれたおもかげは、
かつてないほどに、
鮮やかになった
ちょっとやそっとの辛苦など膝の下へ組みしいてしまえないか。
愛は不滅であることを知る

今しがた落ちし椿を感じつつ落ちぬ椿のぢつと咲きをり(小島ゆかり)
『憂春』25首より
「今しがた落ちし椿」は、風に吹かれたか。
されど、「落ちぬ椿」もまた、風に吹かれていよう。
それはただ一言でいい。
その人生に愛されてきた小島ゆかりの澄んだ(まこと澄んだ)たましいは、それは「ここへおいで」のただ一言でいい行と智で、常、「ぢつと」人を見守る。