
目 次
人生に反射して生まれる色
杳(とほ)い杳いかのゆふぐれのにほひしてもう似合はない菫色のスカーフ(小島ゆかり)
青磁社
シリーズ・牧水賞の歌人たち
『小島ゆかり』
代表歌三〇〇首・大松達知選
『水陽炎』35首より
若いからだがあった。
溌剌としたこころがあった。
いまはない。
「かのゆふぐれのにほひ」と「菫色のスカーフ」が、惻惻と胸を打つ。
若くないゆえの気凛がうかがえるのに、それが、逆にせつない。
時の流れを肉眼で見る

わたくし式守に、この一首は、かなしくいとしい。
「菫色のスカーフ」をもう身に飾っていまい。飾れまい。
この一首を詠むに、小島ゆかりは、どんなルックスでおられたのか。
ただ着なれた部屋着でおられたか。
時間はいつ頃か。
やはり「ゆふぐれ」あたりか。
「ゆふぐれ」に光?
杳(とほ)い杳いかのゆふぐれのにほひしてもう似合はない菫色のスカーフ(小島ゆかり)
「菫色のスカーフ」の精彩は、もう若くないこころの嘆息に落ちる。

人に、時の経過は、生命の残高を減らす。
生命の残高にゆとりがある若い人は、「ゆふぐれ」を一つカウントしたとて衰えは知覚しない。
若い肌はだから光がこぼれるのである。
それは「ゆふぐれ」であってもだ。
そうではないか。
「菫色のスカーフ」がもう「似合はない」のは、「ゆふぐれ」においてさえ発光する肌の力が失われたからである。
しかし人生を降りてはいないこと
風に飛ぶ帽子よここで待つことを伝へてよ杳(とほ)き少女のわれに(小島ゆかり)
同/『憂春』25首より

「杳(とほ)き少女」は、現在の〈わたし〉を知らない。
未来にこうして生きていることを知らない。
「帽子」を飛ばす「風」は、もう若くないことの、仄かな、されどこころに徹している香がある。
と、思われるのであるが……
なぜかなあ
されど横顔に微光?

今しがた落ちし椿を感じつつ落ちぬ椿のぢっと咲きをり(小島ゆかり)
同/『憂春』25首より
小島ゆかりは、「ぢつと咲」く生命を、眉に迫るほど近くにくっきりと見せてくれた。
すでにもう「ゆふぐれ」に光がこぼれる肌はないが、横顔は、なお燦と微光がさしておいでではないか。
人生の純性に反射した
小島ゆかりの作品群は、その音色につれて、花々が奏でるように、人一人のいのちをそよがせてしまうらしい。