
目 次
非日常が未来を進む
母親に抱かれ静かになりし子の眼は深みどり深夜のバスに(小島なお)
第50回(2004年)
角川短歌賞
「乱反射」より
「深夜のバス」は、何も珍しい話ではないが、平凡とも言い難い。
非日常である。
「母親に抱かれ静かになりし子」がなぜ
「深夜のバス」に?
「深夜のバス」の一座席を占めるに過ぎない母と子に、<わたし>の心は、波紋がひろがった。

なぜ深夜のバスにいるのか目が離せない
視覚的には平凡な場面なのである。
その筈なのである。
「母親」が、内実は、どんな感情なのはわからない。
さしあたり「子」は「静かにな」った。
「母親に抱かれ静かになりし子」がなぜ
「深夜のバス」に?
平板な調べによる臨場感
母親に抱かれ静かになりし子の眼は深みどり深夜のバスに
私意私情を欠いた平板な調べである。
されど、それ故の、纏綿たる情理を生んでいる。
深夜のしじまは、刻々と、バスの走行する音に刻まれるのみ。
そのような時空に、<わたし>は、「母親に抱かれ静かになりし子」なる親和の権化を目にした。
どこかに存在する大きな力が、これを、一歌人に見せた光景か。
<わたし>も、そして、読者たる式守も、「深夜のバス」で路上を進むことになった。
「深夜のバス」が時を進める
人は例外なく時を進む。
時の辻にさまざまな姿を見る。
「母親に抱かれ静かになりし子」がなぜ
「深夜のバス」に?
たとえば、この一首では、「深夜のバス」に「母親に抱かれ静かになりし子」の姿があった。
母親への、あるいは子への、<わたし>のおもいがありありと流れていないだろうか。
バスの走行する音によって、そのおもいは、何かを求めるようにひとつの和音になった。
求めたものはただただ幸福な未来
読み直す。
これで最後だ。
母親に抱かれ静かになりし子の眼は深みどり深夜のバスに(小島なお)
<わたし>は、この「母親」と何の利害関係もないのである。
その行く末に、自分に益する機会はまずあるまい。
されど、「母親に抱かれ静かになりし子」なる親和の権化に飲み込まれて、時に「母親」に、時に「子」になって、<わたし>は、幸福であれかしと祈る。
どこかに存在する大きな力に、<わたし>は、しずかに祈る。
大きな力の使いになった

眼は深みどり=絶対的な親和
「眼は深みどり」だそうな。
なぜ「深みどり」かは、「深みどり」だったからとして、「深みどり」が異彩を放つのは、日本人の虹彩に緑は少ないからなんてことではあるまい。
「深夜のバス」に「深みどり」は、この母と子がただ純粋に一対であることを可視化させるのをいっそう強化したからではないか。
「深夜のバス」はなお走る
そして、時はなお、進みゆくのである。
母と子はどうなる。
どうなるもこうなるもない。良好であろうが険悪であろうが、親子は絶対である。
小島なおは、ちょうどそこで時を得たからにしても、与えられた一期のおりに心を温めて、その非凡な情操で、全人類的に通用する未来を確保したのである。
進みゆく「深夜のバス」に……。
