小池光「鉄塔が春雲のそらに」短歌は真理を明るみにできる

短歌はそれを見慣れたものにしない

林間に基部(きぶ)をもちたる鉄塔が春雲のそらにつきささりをり(小池光)

本阿弥書店『歌壇』
2017.5月号
「春の雲の下」より

ただの鉄塔である。
ところが、ただの鉄塔じゃなくなることがあるのである。

写真や絵画にもそれがある。
その表現いかんによって、鉄塔は、容儀が秀麗になる。

もっと言ってしまえば、「鉄塔」の真理が、明るみになる。

真理?

この「鉄塔」に何がある

「基部」は「林間」にある。
人の営みなど遠くの出来事だ。

されど、鉄塔は、送電を担っているとなれば、社会インフラの最重要にランキングされていい。
ということを、人は、ふだんは考えない。

「春雲のそらにつきささ」っているらしい。
鉄塔にも心根があるかの気にもなる。

鉄塔の慕わしきこと

この「鉄塔」で人も変われる

小池光「鉄塔が春雲のそらに」短歌は真理を明るみにできる

読み返す。

林間に基部(きぶ)をもちたる鉄塔が春雲のそらにつきささりをり(小池光)

あたかも春風の手招き

人間には、険しい心がある。
唐突であるが、たとえば、世間に負けていられない、とか。
そんなつもりはないのに、自分を疲れさせるだけなのに、人は、周囲を睥睨する癖が抜けない。

この一首は、そんな心を打ち払う。
などと、考えてみるのはどうか。

鉄塔を遠くに立ちつくすわたしの影は、もうこれまでのわたしの影じゃない。

倒れる電柱

おい、電柱が倒れたぞ。

台風が空と地を暴れまわった。
電柱の、あってはならない姿に、誰もが、誰もが、天災に戦慄する。

鉄塔にも、こんなことが、ないことはあるまい。
天災に直撃を喰らうのはむしろ設備の方だ。
人はこれでどうして身軽なのである。

が、むろん人もまたやはり、天災に逆らうことはできない。
設備も人も、存在としては、万里一空、等しくこの地に立っているのである。

そこで……、
人に手をさしのべられる人がいるように、鉄塔もまた、人に手をさしのべているらしい。

春雲のそらの下で

小池光「鉄塔が春雲のそらに」短歌は真理を明るみにできる

人も鉄塔も空の下に等しい

時代によって、人間の乗っかっている、この地上は、景色が変わる。
現代では、その景色に、鉄塔なんてものがある。

空に鉄塔が聳えている。
ふわりと雲を通してあげる。
鉄塔は、空の、心やさしい番人でもあった。

人も鉄骨の躯体も、存在としては、空の下に等しかった。

で、やはり短歌は芸術だった

小池光「鉄塔が春雲のそらに」

ここでもまた唐突なことを言い出すが、振り仰ぐ銀河や日輪をおもえば、その冷厳な宇宙観に、人の生命など極小であろう。
が、人の気配がある範囲で観察してみると、鉄塔一基の価値は、社会インフラだけではない、人をも更新させる、もっと騰がったっていい価値があったのである。

人とはおりおり、世界と価値を分け合って生きているものらしい。その真理は、芸術の手によって明るみにされる。

人とはおりおり、世界と価値を分け合って生きているものらしい。
その真理を、芸術というものが、明るみにしてくれる/p>

ああ
短歌も芸術だよなあ

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