小池光「くらやみの庭に向かひて」妄想ではない異次元がある

短歌に雑念のないくらやみが

くらやみの庭に向かひて少年は西瓜の種を口より飛ばす(小池光)

KADOKAWA『短歌』
2015.7月号
「沈黙の藤」より

短歌を始めて、小池光を知ってからよりこっち、わたしは、小池光を、常、畏怖している。

「少年」に「くらやみの庭」が似合うこと絶妙である。

小池光ともなるとこうなのである。
小池光は、「少年は西瓜の種を口より飛ばす」だけのことに、ある神々しさを生み出した。

おおげさだろうか。

「少年」は「西瓜」ののっていた皿に「飛ば」したってよかったろうに。
「くらやみの庭」だったのである。

そして、「くらやみの庭」は、あたかも何か人智を超えたはたらきがあるような……。

「くらやみ」とは

この「くらやみ」は、朝を迎えると、人の目に見えなくなる。
朝、「くらやみ」を、光が隠してしまうのか。

そこに「少年は西瓜の種を口より飛ば」した。

なるほどこれが短歌というものか

繰り返しになるが、
「くらやみの庭」に、何か人智を超えたはたらきでもあるような気になるのである。

西瓜を食べているのは誰か

わたしがうまい歌い手になれないのはなぜだろう。
唐突であるが……。

それは、たとえば、ここで、「くらやみの庭」に「少年」を置かないからではないか。

人が西瓜をむしゃむしゃ食べている場面に身を置けば、わたしもきっと、これを歌にしてみたくなる。
ここまではいい。
が、わたしは唐突に、美女が頭に浮かぶのである。

西瓜を食べる美女

マシンガンのように、美女が、西瓜の種を口から連射している。
ついには皿を砕いた。
外国の然るべき機関が、この美女をスカウトに来るかも知れない。
軍事用だ!

これである。
これが、わたしを、ますますうまい歌い手から遠ざけるのである。

では美女は西瓜を食べるだろうか

美女だって西瓜を食べます。

だとしても……、

美女は?

西瓜の種で皿を砕きません。

少年は?

「くらやみ」を前に特別な存在になった。

軍事用の天使もこれでどうして詩にならないことはないであろう。
達人ならこんな短歌も注文生産してしまえるのかも知れない。

でも、わたしにおける軍事用の天使は、やっぱりダメなのである。
ただの雑念に過ぎないからだ。

妄想ではない異次元

街の人々はいつも同じ足音である。
たとえばそこは乗り換えの駅。

しかし、いつもはいない人の足音もあろう。これが人生最後の足音の人もいるかも知れない。

どこへよ?
どこからなのよ?

小池光「くらやみの庭に向かひて」

わたくし式守に、その「どこ」とは、「くらやみ」である。

そこには詩が生まれるかも知れない

ただ、アサシンは要らないな。

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