
目 次
水により世界に人は生きている
ゆふぐれのテラスを滌ふ音はして耳のなかまであふるゝ水位(川崎あんな)
砂子屋書房『あんなろいど』
(種々之歌 二十五)より
<「音」は旧字>
「テラスを滌ふ」水が、自分の前後を翔ける。
されど、これは、あくまで「音」でそう判断しただけで、視覚による実景ではない。
視覚による「テラスを滌ふ」ではないが故に、「耳のなかまであふるゝ」体感は得られた。
詞書もたのしい
詞書もある。
詞書とセットの、ほんとうの完成形を、改めて読み返す。
たぶんハシモトさんでせうゆうぐれのテラスをし今洗える人は
ゆふぐれのテラスを滌ふ音はして耳のなかまであふるゝ水位(川崎あんな)
この詞書がたのしいのは、「たぶんハシモトさんでせう」の「たぶん」に集約される。
日常の生活圏に、清麗な時間が流れた。
おとなりのかわいいばあちゃんを、上の階の陰険なババアが、またねちねち文句を言っているぞ、なんて「たぶん」ではないのである。
「ハシモトさん」は、あくまで「テラスを滌ふ」ことに意外性のないお人なのだ。
「ハシモトさん」は、おとなりのかわいいばあちゃんなれば、上の階の陰険なババアと違って、その「水」が「耳のなかまであふ」れてもおかしくないのである。
となると、これは「たぶん」ではなくて「ぜったい」に「ハシモトさん」だ。
わたくし式守は、「ハシモトさん」が、これだけで大好きになれた。
いいよ、「ハシモトさん」て。
水はなぜ
「ハシモトさん」の次の一首にこんな一首がある。
びにーるのほーすはうね\/うねりをるなかを脱出の水は奔るも(同・(種々之歌 二十五)より)
<「脱」は旧字>
この「ほーす」の先に「ハシモトさん」はいるのか。
「水は奔る」は、あたかも「ハシモトさん」に会いたいがためのようである。
「水」はやがて「テラスを滌ふ」ために流れるが、「ハシモトさん」のためでもある。
いい人だからな、「ハシモトさん」て。
「奔る」なる(動詞の)終止形がすばらしい。
なんてみずみずしい措辞だ。
それだって「ハシモトさん」がいるからだ。
捨てたものではない平凡な暮らし
飛行機音ふいに聞こえて くわびんなる菫のはなとその葉とふるふ(同)
<「音」は旧字>
この一首においてもまた、用言の、「くわびんなる」とよく呼応していることで、「ふるふ」に、みずみずしさが行き渡っている。
「菫のはなとその葉」が「ふる」えたのは、「飛行機音」があったがためであるが、飛行機なんてあんな巨大な機械の音があればアタリマエだ、なんて道理ではなかろう。
「ハシモトさん」がいて「水」がある

この世界は、「ハシモトさん」がいて、「水」があるのである。
「水」がある。
されば、「菫のはなとその葉」が「くわびんなる」のもアタリマエなのである。
天地と人の調和に不可分の生命は、水と共鳴して、短歌は、日常の、平凡な生活圏に、まことうらやむべき断片を写した。
川崎あんななる魅力的な歌人と水と一方でまた魅力がおありの「ハシモトさん」に、
深々と、
ありがとうございました。