
目 次
カルデラ
脇腹に胸に背中にカルデラがあってほんの少しの私(川本千栄)
ながらみ書房『短歌往来』
2025年8月号
「暮れない街」より
これはご自分の体を実見してのものだろうか。
「カルデラ」に驚く。
「カルデラ」は火山活動の果ての窪みだ。
<わたし>の心身には、火山活動ほどの経過があったらしい。
と、読んでみた。
あ、いや、お肌の調子を詠んだものなのかも知れないが
ほんの少しの私
早速、読み返す。
脇腹に胸に背中にカルデラがあってほんの少しの私(川本千栄)
にしても、「カルデラ」には驚く。
不意を打たれた。
「火山活動」を安閑と過ごせなかった。できなかった。
と、読んでみたのであるが。
火山活動ほどのものともなれば、そこで、怯みや脅えもあったかも知れない。
しかし、たとえ「ほんの少し」であっても、「私」はまだ残されている。
カルデラ
と、なったそこはどんなところだった。
そこはどこ
筆者・式守にも覚えがある。
さなきだに沈黙がつつむ、動くものが何一つない夜が、筆者にもいくらかあった。
削ぎ落とされても

人間は人生という時の経過に伴って、その身に、堆積するものがある。
母(父)とか妻(夫)とか仕事(家事)とか。
そのようなものが、それまではアタリマエだった筈なのに、いっぺんに削ぎ落とされてしまった体感を持つことが、人生によってはあるのである。
望んでいたことではない。
予見してもいないのである。
それを思えば、沈黙がつつむ夜にうずくまる体に、「ほんの少しの私」は、人間の核の核の核ではないのか。
読み返す。
これで最後だ。
脇腹に胸に背中にカルデラがあってほんの少しの私(川本千栄)
初読では、筆者(わたくし式守)には、淡い諦念に縁どられた心情を読んだ。
もうこれっぽっちでしかない自分であるとの。
が、そうではないのではないか。
むしろ逆。
なんと荘厳な「ほんの少しの私」だろう。
川本千栄

これは何も卑屈になっているのではなく、現実の認識として、才能もなく著名でもないのに、わたくし式守は、なぜこうも歌を詠み、歌を読んでしまうのだろう。
そのなぜがわからなくなることがある。ほんとうに不思議で、不思議で。
このような歌、このような言葉、このような私を知ることがあるからだった。
川本千栄の「ほんの少しの私」で、人間の核の核の核がいかに尊いものか、筆者(式守)は、しばらくうなだれていた。


