加藤正明「草のそよぐ音」見える人にしか見えないものがある

そこは廃墟よりさびしい風が吹いていて

赤錆びてドラム罐一つ置かれあり空地は草のそよぐ音して(加藤正明)

第3回(1957年)角川短歌賞
「草のある空地」より

<「音」と「空」は異体字>

角川短歌賞の第3回受賞作品から引きました

基本、短歌であれば、わたしは、何でも好きであるが、こんなつくりの短歌がとくに好き、というのはある。
この一首は、わたしの、そのような一首である。

空地の時間は盗まれて

これまでも、これからも、この「空地」は、時間が、風雨に、盗むように持ち去られてしまうのだろう。
そのような土地を見かけることはたしかにないでもない。

でも、「ドラム罐」はない。まして「赤錆びて」いるなんて。

ジャイアンも
ここでは
リサイタルショーを
しないよなあ

わたしは、大真面目にこう思うのである。
ジャイアンでも、ここに乗ることはあるまい。こんな「ドラム罐」では。
いやマジ。

空地と廃墟

適度な高さをのこして、コンクリートが砕けている。そのような廃墟であれば、さぞ澄み渡る青空がよく似合うであろう。
が、「ドラム罐」が、それも「一つ」だけ「置かれあ」る「空地」では、静謐な青は似合わない。

美しい青空の下では、この「空地」は、そもそも人の目に映らなくなっているのではないか。

見える人にしか見えないものに

連作には、こんな一首もある。

こまかなる若葉の浮ぶ古き池人の通らぬ橋かかり居り(加藤正明)

この「橋」は、無用のシロモノである。

むこうに渡りたい、
となって、わたしは、ここを渡らない。
あ、いや、渡れない。

やめておけ。本能が制止するだろう。
人の手で維持されてのものであろうに。

連作「草のある空地」の<わたし>は、ふだんは人の目に見えないものが見えるらしい。
幻が見える、
とは言っていない。
それは実在しているものであるが、見える人にしか見えないものになっていて、加藤正明はこれを見ることができるお人なのだろう。

見えなくなる

夜が、風一つで、世界を消してしまいそうに思えることがある。
そのような体感を持つことがたまにある。わたしだけではあるまい。

しかし、夜になって、現実に世界が滅びることなどない。
ささやかな灯りが世界を保つからである。

「ドラム罐」は「赤錆び」た、と。
まだ朽ちてはいない。が、それも時間の問題か。

「橋」も「ドラム罐」も、確実に滅びる。
現に、滅びかけているではないか。

それを「草のそよぐ音」が賦す。

「草のそよぐ音」一つが。

その音ただ一秒

加藤正明「草のそよぐ音」見える人にしか見えないものがある

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