
目 次
その短歌を読み手を信じてさしだす
指二本昨日奪ひしプレスの前今日新入りの臨時工が坐る(加藤正明)
第3回(1957年)角川短歌賞
「草のある空地」より
<「前」と「空」は異体字>
労働の厳しさとそれに耐えている自負。家族への感謝。
ひとりの男性の豊かな表情を随所に見ることができた。
短歌の実作を始めたばかりのわたしに、この一首は、裨益すること大であった
すぐれた短歌の活眼

「指二本」が「奪」われることがあっても欠員ができれば直ちにこれを補充する。
そこに、かわいそうにとか、こんどはそんなことがありませんようにとか、哀れみや祈りの直截的な言葉は要らない。
要は、ちゃんとわかる、ということ。
そして、作業員への敬意が生まれる。
そこを直截に詠まない、ということで
哀れみや祈りは誰の心にもしまわれている白珠の真実である。
すぐれた短歌の活眼は大いにここにあろう。
うすっぺらい認識
目の前の一首を味得するのが困難なこともある。
読み手にばかり負担がかかる、というわけだ。
唐突に
短歌のおけいこをはじます
<草稿>故障したエレベーターに若者とご高齢者が最上階で
読み手がわかるかわからないかだけで言えば、これは、わからなくもない。
作者(わたくし式守であるが)はおそらく、エレベーターから降ろされた一方は若者だが、一方はご高齢者なことを対比して、ここに、ご高齢者の方は気の毒だなあ、と。
まあそんなこんな。
でも、状況説明に過ぎないのである、これでは。
わたしは、ご高齢者の不運を、うすっぺらい認識で設定しただけなのである。
うすっぺらい認識では、それをいかようにしても、詩に生まれ変わるわけがない。
階段へ向かって猛ダッシュするご高齢者でも詠んだ方がまだよい。
事実、わたしは仕事で、そんなご高齢者を、いくらも見ている。
状況の説明ではない/心情の再現である
この連作には、次のような一首もある。
工場の間(あはひ)の空を過ぐる雲その全貌を見ることもなし(加藤正明)
この舞台を、読者は、その頭に、正確に再現することはできない。
この「工場」のどこで、どんな角度から「空を過ぐる雲」を見上げたたのか、それはわからない。
でも、ある痛みを伴って、「間(あはひ)」に切り取られた「空」を、わたしは、作者・加藤正明氏と共有できるのである。
状況の説明は要らない。
その心情を知っている。
短歌は、人一人の心情の再現を手助けすればそれでよい。
手助けさえすればそれでよいわけではないが、作者が、心情の再現を完成まで進めることはないのである。
短歌的な表現というものがその先にもちろん必要とされるが、それは、また別の話である。