岩花キミ代「余命あとくばくも」の「旅の約束」はいかに

結論的にこの世では果たせない約束

余命あといくばくもなきこの友が真顔に旅の約束を言ふ(岩花キミ代)

本阿弥書店『歌壇』
2017.11月号
「雨音」より

その約束は無理だろう、と考えるのが自然である。
そうと思っても不謹慎になるまい。「余命あといくばくもなき」なのであれば。

ならば約束してはいけないのか。

できない約束はできないとや。
あるいは、旅行など行けやしないのを承知で、ここは、死にゆく人への慰めに、とりあえず「うん」とや。

違う。違う。
約束していい、と思った。
たしかにこの世では果たせまいが。

この世では果たせまいが、何らかの形で、それをいつしか果たそうと

約束する価値のある真顔

岩花キミ代「余命あとくばくも」の「旅の約束」はいかに

早速、読み返してみる。

余命あといくばくもなきこの友が真顔に旅の約束を言ふ(岩花キミ代)

わたくし式守は、この「真顔に」の措辞に、鼻のあたりがツンとなってしまった。
鼻のあたりがツンとなったことに、理由は、2つあるかと。

余命なのである

余命とくりゃあ、もうこの人生は残り少ない、ということなのである。

真顔なのである

ありていに言えばすぐ死んでしまうのに、旅の約束を、それも「真顔に」だったのである。

<わたし>と「友」の時間の観念の差異

友においても、ご自分が、「余命あといくばくもなき」ことを、知っておいでだ。

でも、「旅の約束」をする、となると、「余命」って何なのよ、ということですよ。

余命

何よ

「友」が、それは、この世にいる時間。
「友」が、それは、<わたし>といる時間。

<わたし>に、余命の先は、死後でしかない。
「友」には、しかし、余命の先も未来なのかも知れない。

と考えてみるのは、人さまの死後に、逆に、敬虔の念を欠いてしまうだろうか。

ドラマ化に過ぎるだろうか

それは、わたくし式守の本意ではないのであるが

約束を果たせる友として

岩花キミ代「余命あとくばくも」の「旅の約束」はいかに

読み返す。
これで最後だ。

余命あといくばくもなきこの友が真顔に旅の約束を言ふ(岩花キミ代)

「友」と<わたし>は、それぞれ違う姿で、いつしかほんとうに旅に行ける、と考えてみるのはどうか。幼稚だろうか。

輪廻?

(たとえば仏教上の)輪廻転生をイメージすればよいか。

それはいつかはわからない。

SF?

(たとえばSFの)タイムスリップでもいいか。

チープな設定ではあろうが。

幽霊?

<わたし>の目には見えないが、「友」は、<わたし>の旅に寄りそう、といったストーリーはどうか。

<わたし>との約束に執着があって成仏できない解釈が出てきてしまうが。

これらのいずれかがほんとうに起こり得るかも知れない、と考えてみるのは、やっぱり幼稚なことだろうか。

そういう未来を、こんな場面で、ちょっと信じてみることは、いい大人の考えることではないのだろうか。

「友」と
<わたし>は
いつしかいっしょに

そういうことにしましょうよ。

そういうことにしましょうよ。

いつしかきっと

岩花キミ代「余命あとくばくも」の「旅の約束」はいかに

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