糸川雅子「石けりの石わが影のなかを」ありのままのすがたを

ころがる石を詩として拾う

夕暮れに子らが蹴りたる石けりの石わが影のなかをころがる(糸川雅子)

砂子屋書房『糸川雅子歌集』/
『水蛍』(日記)より

たとえば、歩道を歩いていて、誰かが足でちょっとどかした空き缶がころがる音がきこえる。
すると、空き缶がわが体内をすりぬけたかの体感を持つことがある。そうそう何度もあることではないが、何回かはあった実体験である。

ころがった空き缶の実体が、わが肉体を透過することなどない。
空き缶は空き缶であって、光や放射線ではない。科学的にそれはあり得ない。

わたしは、これを、短歌にできないが、わたし以外の歌人は、たとえば糸川雅子であれば、これを、いい歌にしてしまえるのではないか。

たとえばこの一首のように。

これだってそうだ

雨の午後郵便受けの封筒にインクにじみてわが名濡れおり(糸川雅子)

同・(望郷)より

これは、科学的な説明がつく。
「雨」で「インクにじみて」しまったのだ。
「雨」が「わが名」に、ということだ。

わたくし式守に、この経験はない。
が、この短歌は、ただ想像が届くばかりではない。体験できる。

これはこれこれこうだからおもしろいんですよ、
なんて御託は要らない。
一言で言えば、であるが、わかる。

また、糸川雅子には、こんな短歌もある。
(これがまた、わたしの大好きな一首なのである)

仕上げには木槌で頭部たたかれて出来上がりたるこけし人形(糸川雅子)

本阿弥書店『歌壇』
2016.4月号
「白」より

静止しているたしかな詩

赤錆びてドラム罐一つ置かれあり空地は草のそよぐ音して(加藤正明)

第3回(1957年)角川短歌賞
「草のある空地」より
<「音」と「空」は異体字>

いづくかに傷をかくしてゐるやうに研磨の石の悲鳴をあぐる(香山ゆき江)

ながらみ書房
『水も匂はぬ』
(石けづる音)より

その人生に詩なんてものを必要としない人生を送る人も、その途上で、たまたま目に入ったものに、あれっ、となることはある。

「ドラム罐」も「研磨の石」も、要はたまたまなのであるが、その時に限って、ある角度をとって目に入った。耳に入った。
詩を体感した。

これを短歌にすると、その一首で、他の誰かに、実体験にはない体験をさせる。

それはたまたまそこにあるのか

ここでここまで鑑賞した短歌のいずれも、作者が、自らそれを求めてはいない。
自らそこに接近してはいない。むこうから接近した。

たとえば、次の三首もまた。

林間に基部(きぶ)をもちたる鉄塔が春雲のそらにつきささりをり(小池光)

本阿弥書店『歌壇』
2017.5月号
「春の雲の下」より

身を捨つることなどつひにあらざらむ終の棲家の仙人掌の花(武藤雅治)

六花書林『鶫』
(こんなところに)より

森の樹がみな手を垂れて夜(よ)となる時われの後に椅子置かれたり(前川佐美雄)

短歌新聞社『捜神』
(野極(梅雨五十吟))より

これが人間だったらどうだ

ここにある人々の属性は、その情報が不足しているが、その不足が補えないか

指二本昨日奪ひしプレスの前今日新入りの臨時工が坐る(加藤正明)

第3回(1957年)角川短歌賞
「草のある空地」より
<「音」と「空」は異体字>

臨時工?

作業服を着た若者だろう


満開のさくらのしたの老夫婦かたみに<今>を写しあひたり(春野りりん)

本阿弥書店『ここからが空』
(さくらの落款)より

老夫婦?

ご人相がさぞ穏やかなことだろう


花売るはさびしかるらしふるさとの花売る女(ひと)は頬かむりする(高松秀明)

角川書店
『五十鈴響(いすずなり)』
(道の駅 2)より

「花」を買ったのか?

目にしたことがつらかったばかりだろう


「夕焼け」といふ古書店の奥ふかき机にしんと人はをりたり(竹山広)

柊書房『遐年』
(夏至前後)より

「人」って誰だ?

そこのご店主だろう

唐突であるが短歌は税金に似ている

唐突であるが、短歌を発表するとは、あくまでわたくし式守の強弁に近いが、何らかの税を申告するに似る。

それがいかに巧妙であっても、読者に、仮装・隠蔽など見破られるからである。
ペナルティは、こうだ。
詩としてたいせつにされない。

この国の課税技術は複雑で、どの企業も、ミスの一つはあろう。
むろんあってはならないのが前提であるが、ミスの質によっては、見逃してもらう、なんてこともある。見解の相違があれば、出るとこに出て、これを争うこともある。

で、税務で最も許されざる行為は何か。
仮装・隠蔽である。

現実にそうはなっていないが、国家の財政は、その課税で、公平性の維持に努めている。
よって仮装・隠蔽のペナルティがいちばん重い。

これは、フィクションはご法度だ、との意味ではない。フィクションでもノンフィクションでも、詩的真実はあるか。
(念のため補足)

歌をありのままつくろう、という結論

どうにも今さらのところに着地する。

修辞の巧拙の以前に、それが、いかに真かが問われる。
ありのままをつくった作品が採られるのは、そういうことではないのか。

ここでまた唐突であるが、人は、矛盾相克の地を生きているが、矛盾相克ともなれば、その頭脳がいかに明晰であっても、ここに生きる人々の不思議など容易に解決できる者などいまい。

されば解決のままならないところに誕生する言葉でありのまま短歌にしてみればいいのではないか。

それがいい歌になったか、ならなかったか、そんなことは知らん。
それを決めるのはわたしではない。

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