糸川雅子「仕上げには木槌で頭部たたかれて」短歌にも音量が

短歌の音量は低くていいらしい

仕上げには木槌で頭部たたかれて出来上がりたるこけし人形(糸川雅子)

本阿弥書店『歌壇』
2016.4月号
「白」より

卒然と自分も短歌をつくってみたい、となった。

それまでも、おもしろい短歌があれば、都度、ノートに書き写していたが、より意欲的に書き写すようになった。

この一首は、その頃のノートに残っている。
頭に☆まで付けておいた。

初句の「仕上げには」から目が離せない。

初句

この初句「仕上げには」で、わたしは、短歌の音量なんてことについて考えさせられた。

こけしは作られるものだったのである

糸川雅子「仕上げには木槌で頭部たたかれて」短歌にも音量が

なんとこけしは作られるものだったのである。
作られるにおいて「木槌で頭部たたかれ」るらしいのである。

こけしをもう、これまでと同じ目で見られなくなった。

「木槌で頭部たたかれ」たことで、こけしが、わたくし式守に、分身の一体ではなく個として独立したこけしになった。

なるほど
短歌はこんな力があるようだ

初句についての認識不足に気がつく

初句の「仕上げには」から目が離せない。
わたしがうまい歌い手になれないのは、ここなんじゃないのか。

初句に「仕上げには」とはできないのだ、わたしには。

「春が来て」なんて書き出しの歌がある。
のんきな歌だ、と思っていた。エントロピーが低過ぎる、とも思ってきた。

とんでもないひょうろくだまだった

この「仕上げには」であるが、
ここだけを抜き取ると説明的な語彙かも知れない。平凡かも知れない。

が、「仕上げには」の、この初句は、説明的なようでいて、結句までターボをかけられるのである。

わたしであれば

わたしだったらどんなことをしてしまうか。

おお
ここにこけし人形

ぬぁ~んてしまうだろう。

するな、実際に

「ここにこけし人形」は?

こけしがうすらぼんやりしている。
いきなり「こけしだ、こけし」とうるさいことだ

「仕上げには」は?

結句までターボがかかる。
結果、目の前にパッとこれまでとは異なるこけしが出現する

唐突に秋の虫

秋になると、秋草にすだく虫の声がある。

唐突だが

唐突だが、川の流れと交響する、秋草にすだく虫の声を、いきなり大音量で聴かされたらどうだろう。せっかくの自然の奏では台無しになる。

と、そのようなことを、わたしは、短歌をつくるにおいてしていないか。

短歌の音量

「仕上げには」
いい初句である。

わたくし式守は、初句に、いかにも意味ありげな語彙を、バンッ!  と持ってこないといけないかの縛りがあった。
「春が来て」では楽しませられない、と。

「おおここに」
ではうるさいだろうに

初句に奇を衒わないことだ。

その一首にはその一首の音量がある。

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