
目 次
妻に誘はれ

妻に誘はれ散歩に行けり残る葦が銀色となり冬日にかがやく(庵伸雄)
本阿弥書店『歌壇』
2017.5月号
「節分の夜」より
「冬日にかがやく」のは、「残る葦」である。
「銀色とな」るそうな。
冬ともなればそうもなろう。
あたりが渺として仄かに明るいことが写されている。
美しい。
連作「節分の夜」を読み返すほどに美しい。
なぜこうも。
なぜ?
妻が買つてくれた

この連作「節分の夜」の1首目と2首目は、次の二首がリズムよく並んでいる。
自転車で転んだ傷跡が痒くてならぬ妻が薬を買つてきてくれぬ(庵伸雄)
妻が買つてくれた薬患部にぬれば痒みたちまち消えてゆきたり(同)
「痒くてたまらな」いのはまことお気の毒であるが、
自分で買いに行けよなあ
妻が冷たい女みたいじゃないか
ここまではまあよい。
よいとも言えないが、文学としては、なくない話として。
そして
妻が買ってくれたって、あなた
<わたし>は、妻に、甘ったれているようにしか印象されない。
それに伴って、妻に、目を離せなくなる。
妻の声によく従う

水面がまだらに光る水の藻が水を透かして見えてゐるらし(庵伸雄)
「らし」はなるほど、このような景色を、このような結構で措くと効果があるらしい。
妻は<わたし>に言ったのだろう。
「水面がまだらに光る水の藻が水を透かして見え」るよ、と。
<わたし>の耳に、これは、快いものだった。
短歌にした。
<わたし>は、妻の声によく従うのだ。
そもそも
ほれ
妻に誘はれ散歩に行けり残る葦が銀色となり冬日にかがやく(庵伸雄)
<わたし>が妻との関係を頭のしんに常において生きておいでであることがだんだん明らかになった。
うつの<わたし>

一日が無為に過ぎて行くことは耐へがたかりしうつといへども(庵伸雄)
この「うつ」であるが、抑うつ症状に苦しんでおられるのか、あるいは、うつ病という立派に病として罹っておられるのか。
そのいずれであっても、「一日が無為に過ぎて行くことは耐へがた」い、生きるにおいてそのような価値観を置いておらる。
されば、こう想像が届いてもよくないか。
<わたし>はこれまで、仕事でも家庭でも、できる限りのことをしようとして生きてこられた。
そのために「うつ」にもなった、と。
そこに
妻に誘はれ散歩に行けり残る葦が銀色となり冬日にかがやく(庵伸雄)
ただでさえ美しいのがそりゃいっそう美しくもなるわな、と。
乗り越える夫婦
妻にとって夫が息子のような夫婦がある。
それは、たとえば、だめ男にできた女がついているような。
が、この「節分の夜」は、そのような夫婦に見えない。
一日が無為に過ぎて行くことは耐へがたかりしうつといへども(庵伸雄)
夫に妻は
薬を買ってくれた
散歩に誘ってくれた
光る水の藻を指さしてくれた
「うつ」を招いてしまった<わたし>に献身的なのである。
また、妻から享ける恩恵の大きさに気がついていない<わたし>ではなかったのである。

節分の夜
この「節分の夜」は、次の二首がエピローグである。
節分の夜埼玉文学館より歌集『妻の味噌汁』の受賞知らさる(庵伸雄)
かすかなる希望をもちてゐたれども思ひがけなき受賞喜ぶ(同)
いまさらですが……、
おめでとうございます
どうぞ、
どうぞご無理なく。
