
目 次
母によって詠まれた?
玄関の棚に置かれた子の鍵に見てきたものを聞きたき夕べ(井上久美子)
本阿弥書店『歌壇』
2017.12月号
「女棲む月」より
母によって詠まれたものかと。
作者は井上久美子さんであるが、それは関係ない。名を隠してもそうと思える一首ではないか。
そうと思える措辞は、では、どこにあるのか、この一首に。
ない。
なぜ母によってと?
なぜ?
父によってはないんじゃないの~
作者が井上久美子さんである。そこはいったん措いておく。
父によって詠まれた可能性はあるか。ない、と断言はできるのか。そう読んだっていい、とも言える。
でも、<わたし>が父だったとしてこう詠むかなあ。わたしには子がいないから自信を持って父はないな、と言えないのだろうか。
子が男子
子が男の子で<わたし>が父の場合は、「子」が外で何をしてきたか、わが子にひとくさりのロマンを持つように思うのだ。何をしてきたのかあえて知らないままでいてあげる的な。
子が女子
子が女の子で<わたし>が父の場合は、詠むよりもいらだっていそうだ。いらだつとはうすらバカな男とバカップルをしないでほしいとか。あ、いや、わたしの知り合いだけの話かも知れないが。
で、男子? 女子?
子は男の子なんでないの~

読み返す。
玄関の棚に置かれた子の鍵に見てきたものを聞きたき夕べ(井上久美子)
ふむ。
あれこれ推理したいことがいっぱいあって混乱する。
で、
<わたし>は、「見てきたものを聞」いたのか、結局は。
この「見てきたもの」がどこまでも謎の母の姿が浮かぶ。
外で何を、との不安や心配ではない。母として何でも把握しておきたい、そういうことでもない。
ただただ知りたい。
子であると同時に異性なんじゃないかなあ、と。
鍵って何の鍵よ?

玄関に置かれた鍵。
ここ、ここ、ここ~。
自転車の鍵か。違うな。家の鍵だ。出かける時にまたここで手に持つのだ。
ちゃんと家に帰ってくる子なのだ。
愛しい。
腹が減れば家に帰るしかないなんて話ではない。めったに帰ることがないままいずれ警察から電話が来るような話でもない。
ただ、
外で〇〇ちゃんとこれこれこんなことで遊んできたの、なんてことはもう話さなくなってしまったのだ。
子が持つ鍵は、現代ではスマホもそうか、けっこう親と子の紐帯があることを証明する。
しかし、その子が外で何をしていたかを語る術は、鍵にはないのである。
たのしくてちょっとせつない

読み返す。
これで最後だ。
玄関の棚に置かれた子の鍵に見てきたものを聞きたき夕べ(井上久美子)
やがて、子が、異性から鍵を渡される。
いつでも好きな時に来ていいんだからね、と。
そんな鍵ではない。
親のあるところの鍵。独立して恋人とバカップルする部屋の鍵ではない。
子は今、自由に外に出られる。鍵を自由に持ち出せる身分になった。
しかし、外で何をしているか、自分の口で語ることは少なくなってしまった。が、母に、あるいは父に、鍵は何も語らない。
鍵があっても外で何をしてきたか自分で語るのは、恋人と共有した部屋で再開する。
ますます親から遠くなる。
「玄関に置かれた鍵」はやがて親に返される。
語り合わない親と子が、鍵を軸に、どれだけその愛は切なくも大きいものかを訴える。
この一首は、母の、あるいは父の歌かどうか、そんなことはどうでもいいとわたしは考える。
子が男の子でも女の子でもそれは同じだ。
わたしが、この一首を大好きになったのは、あくまで親子の歌として、である。