
目 次
気持ちも場面もよくわかる
友達をとられたような感覚に知らぬ職場の話を聞けり(井上佳香)
本阿弥書店『歌壇』
2017.1月号
「十一月、夜」より

これとほぼ同じ経験があって、わたしは、この気持に共感できる。
記憶の底に眠っていた、その時の、それこそ「感覚」が、呼び覚まされた。
この一首の場面も、これまた肌で知っていて、わたしは、その友人が、なんだか遠い存在になってしまった体感を持ったものである。
友達をとられたような
「友達をとられたような」は、あくまで「ような」であって、ほんとうに「とられ」ていない。
いないし、今もなお、<わたし>の「友達」である。
しかし、「知らぬ職場」の話は、共通の知り合いが登場しない。
ここで、一つ、問題になる。
「友達」の新しい知り合いの、その敵味方だ。
これはもちろんたとえばの設定としてであるが……
「知らぬ職場」は、そこにも、敵視せざるを得ない人はいよう。新しい味方と防衛線を張ることになろうか。
ここ。
ここなのである。
この新しい味方によって、<わたし>は、疎外感を覚える。嫉妬なんてものもあろうか。
わたくし式守は、先に、ここを、「遠い存在」の「体感」、などと言ってみたが……
この一首を、どなたか別の歌人の手による、「遠い存在」なる修辞を活かして完成させたものを読んだ、とする。
だとしても、わたくし式守は、これを、やはりおもしろく読めたと思う。
思うが、でも、「友達をとられた」なる修辞の方が、ずっとよくないか
その「友達」に、新しい(たとえば)敵味方のあることを、もっと鮮明にイメージできようし、ひいては、「遠い存在」なるを覚えるに至れるかと。
「感覚に」の「に」
読み返す。
友達をとられたような感覚に知らぬ職場の話を聞けり(井上佳香)

「に」
歌人とはなべてそうなのであろうが、「てにをは」の一音に、どれがその一首に最適か、何週間もかけて、あるいは、年単位の時間をかけて検証する。
井上佳香に、この一首で憧れの花が咲くのは、この「感覚に」の「に」である。
話を聞いているうちに「友達をとられたような感覚に」至ったのである。至ってしまったのである、というような。
「で」
たとえばこの「に」を、あくまで恣意的であるが、「で」だったとする。
「に」を「で」にしてみた。
<わたし>の心情は、「で」でも、理解できることでは同じであるが、だんだん存在を遠く思えてしまう、このだんだん性が得られないのだ。
「友達」はいいものだ
去年までともに働きたる人は変わらず姿勢よき肩をもつ(井上佳香)
ゆっくりと我らはジョッキを傾ける電通の過労死の話も出でて(同)
いずれも
本阿弥書店『歌壇』
2017.1月号
「十一月、夜」より

変わらず
去年までともに働きたる人は変わらず姿勢よき肩をもつ(井上佳香)
変わらず
「変わらず」とのおもいは、「姿勢よき肩」だけか?
<わたし>の、「去年までともに働きたる人」への、すなわち「友達」への、忘れ得ないおもいが、「姿勢よき肩」にあつまっている、ということでは?
変わらず・2
再会まで少し時間が空いていたらしい。
だから「変わらず」なのであろうが、「友達」とこうして「変わらず」融け合って再会できることの、この人生に、なんと無垢な美であることか。
過労死
ゆっくりと我らはジョッキを傾ける電通の過労死の話も出でて(井上佳香)
働いていれば、上席とのパワーバランスに、拒否することのできない日々が続くこともあろう。
拒否できる関係性があっても、社内がどんな文化かによっては、過重な負荷にあえぐしかない同調圧力もあろうか。
それを他人事の話として、お二人が、「ジョッキを傾け」てはいまい。
そんな筈はない。
ただただ痛ましかった、電通の、あの女性に、こんな言い方は無神経であるが、ああはならないようにしたいね、ま、そんなあたりではないか。
今は別々の職場のふたりであるが、ああはならないために、「ジョッキを傾け」たのではないか。
働く者同士の、これはもう、戦友ではないか。