井上佳香「やらなくていい宿題」夏の玄関口で喧嘩する母子

やらなくていい宿題

「やらなくていい宿題」で喧嘩する母子は夏の玄関口に(井上佳香)

本阿弥書店『歌壇』
2016.10月号
「夏の玄関口」より

井上佳香「やらなくていい宿題」夏の玄関口で喧嘩する母子

やらなくていい宿題だそうだ。
成立しない日本語である。
言語センスに溢れたお子さんだ、と言ってしまいそうになる。

やらなくていいとはできない宿題も一方にはあって、そっちの宿題は、この子もちゃんとしているのだろうか。

かわいい

しかし

やらなくていいとはできない宿題ならちゃんとやるとしても、やらなくていい宿題はしない小賢しさを覚えてしまうようでは、この子の将来に、いずれ大患となろうか。

まったくアタリマエのことであるが、<わたし>は、玄関口で、立派な母である

母子は喧嘩する

子どもはこんなことを口にするものだ。
だからと言って、母親が、あらそうなの、とは言わない。

お子さんはよそでもこんなことを?

相手が母親だからそう言った

で、じゃあね。
玄関の外に出ようとした。

が、ちょっと待ちなさい。
母親は子を、玄関の外に出さなかった。

「やらなくていい宿題」の、やらなくていい根拠を、子は、母に、あれこれ説明したかも知れない。「やらなくていい宿題」なんて修辞が可能な子であれば、やらなくていいことも、ちゃんと言葉にできたに違いない。

むしろ母こそ、ご自分が歌人であることも忘れて、
「やらなくていい宿題」なんてない、
その一点張りだったのではないか。

母親も愛しい

しかし

お子さんが、自分は未熟だった、と回想できるまであと何年かかろうか。

それを自覚できる頃は、子の、玄関口の扉の外の世界は、母親の想像のつかない世界になっていようが。

改めて言うまでもないことであるが、<わたし>は、玄関口で、子の、まだ保護者である

夏の玄関口

夏の、ということは、これは、夏休みだろうか。
そろそろ夏休みということで、子が、少し浮かれてきたタイミングか。

それはわからない

でも、子に、人生はまだまだこれからだ、と思える措辞である。

夏はたしかで、で、夏であることがまたいい

少年は、その夏のからだを、結局どこか涼しいところに置くことになるのに、家の中でじっとしていられない。

宿題と玄関口

「やらなくていい宿題」で喧嘩する母子は夏の玄関口に(井上佳香)

おもしろくって
やがてしみじみ

玄関の外を正しく生きていけるか、宿題は、その採点基準である。

玄関の出入りの様相は、母から独立しているかいないか、その外観を占える。

この一首に父親は不在であるが、母なる<わたし>は、頭に血がのぼっていても、この家の玄関の外の人には喜劇でも、子に、責任を果たしている

母ある子よ。
お母さんをたいせつに。

そしてお母さん。
おつかれさまです。
ほんとうにおつかれさまです。

井上佳香「やらなくていい宿題」夏の玄関口で喧嘩する母子

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