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オフィスと森

ざわめきのやまぬオフィスは森に似て葉擦れの音に振り向いてゐる(飯田彩乃)
本阿弥書店『歌壇』
2016.3月号
第二十七回歌壇賞
受賞第一作
「永遠が近づいてくる」
より
オフィスが舞台の短歌では、まずこの短歌に、第一の愛執を感じている。
オフィスに、森であれば葉擦れに相当する音が背後にあって振り向いた、と。
振り向いたとて、わが身を狙う猛獣がいた、なんてことはなく、また、振り向くと、そこに美しい湖が光っていることもない。
オフィス、オフィス
どこまでもオフィス
されど、オフィスと森が等号で結ばれることを、わたしは、体感することができたのである
わたしは、20年以上を、オフィスで過ごした。現在、夜間に、オフィスビルの専有部の清掃をしていることを思えば、30年以上は、オフィスに身を置いてきた勘定になる。
オフィスは白い

オフィスの基調色となるとやはり白であろうか。
と言って、たとえば古代ギリシャの印象など微塵もない。近代テクノロジーに選ばれた、これは、日本のオフィスの光彩なのである。
近代建築に構えたオフィスに海底を想起することはない。
では、オフィスを森にたとえるのは自然なのかと言えば、それもまたどうか。
されど、オフィスと森が等号で結ばれることを、わたしは、体感できたのである
森の中で人は警戒する

所属する企業が違和なく営まれているかどうか、人は、常に、細心の注意を周囲に払う。
イレギュラーの怒号や奇声を発する人が会社にいる。違和なく営まれているべき前提はここに覆る。
採用面接で協調性の指数が問われる。この人は、みんなとなかよくやれるやろか、というわけである。
森の葉擦れ程度だったらどうか。
森の葉擦れ程度でもやはり脅かされる。異変の予兆かも知れないではないか。
振り向くこと

ざわめきのやまぬオフィスは森に似て葉擦れの音に振り向いてゐる(飯田彩乃)
何かあれば自衛策が必要となる。自衛である。早ければ早い方がよかろう。
よって、オフィスの中は、森の中にいるのと同じだけ感覚が鋭くなる。
背後に猛獣がいるのではないか、というわけだ。
(美しい湖が出現したのか、と期待して振り向く歓声もないではないが、それはまた、別の話)
オフィスの中で振り向くのは、街に火事が発生して、不謹慎であるが血が騒ぐのとは、意味合いが全く異なるのである。
振り向いたところに

オフィスは何も、デスクで、パソコンに向かってばかりのところではない。
森の中を逍遥するようにオフィスの中を逍遥することがあるのである。その小さな歩行に、葉擦れの音があれば、振り向くことがあるのである。
ちょっとした打ち合わせをしている。雑談をしている。
いやなやつとすれちがう。
あいさつをする。うんともすんとも言わない。ますます嫌いになる。
この小さな歩行で、たとえばこんな音に振り向くことがある。
私生活に十字架を負っている人が時計ばかりを見ている。焦燥を眉に書類の四隅をとんとんとそろえている。
またこんな音もあろうか。
役員室から呼び出されてやっと戻った人が家族の写真の前で目を閉じている。深く息を吐く。
天井の白い光の下は、その人生のために、底力のある人が、点在しているのである。
もう一度読み返す。これで最後だ。
ざわめきのやまぬオフィスは森に似て葉擦れの音に振り向いてゐる(飯田彩乃)
ああ
いいなあ
いい歌だなあ
作者・飯田彩乃は、オフィスに身を置いてきた、わたしの人生を貫いた。
わるい人生でもなかった
